アヲイ報◆愚痴とか落語とか小説とか。

創作に許しを求める私の瓦斯抜きブログ

“木を見て、森を見る”

 

まだうじうじ言ってますw

コンペティションなどで、異なるジャンル同士の作品をどう評価するのか、ということについて、考えてみればそもそも同ジャンル同士でもムリがある。「『ももたろう』と『うらしまたろう』どっちが良い?」てなもんである。

無理やり優劣をつけるとして、好き嫌いや思想信条が混じるのは仕方がないが、最低限それを減らすには、評価基準を絞り込む必要がある。ジャンルや作品の個性を超えて存在する共通点に注目し、その多寡や巧拙を検討する。つまり心理描写である。どんな作品にも登場人物がいて、彼らが一喜一憂、葛藤煩悶することで物語が進む。小説に限らず、紙芝居でも演劇でもパントマイムでも、表現の枠を超えて存在するのは心理表現ただひとつである。まずはその部分に特化して比較し、しかるのちに物語の豊かさやメッセージ性に評価範囲を広げる。フィギュアスケートに似ているかもしれない。とんだりはねたり、評価項目をチェックした上で、全体の演技をみる。全体が良くても項目を落としたら選外だ。

選考基準としての公正さはこれに尽きると思う。きちんとした技術を持っている人を選ぶ。称賛はされなくとも、否定することはできない……そのように選ぶ。

このような選出の弊害として、表現技法など枝葉を見て、その後に森全体というべきストーリーラインを見るので、必ずしも万人受けする作品が選出されるとは限らない。あくまで評価の主軸は心理表現への意志と技術であり、面白い話であることは最優先ではないのだ。もっとも、みごとな枝葉が集まれば必然的に全体が美しくなるはず……。しかし複数の美人の顔パーツを集めた福笑いが必ず美人になるとは限らない。

あと、思うのは、「そもそも人は表現そのものを行うために小説を書くだろうか?」ということだ。通常人は、何か物申したいことがあったり、面白い話を思いついたりして、作文にしようとし、小説という形式をとったりする。執筆の目的は想いの文章化であり、表現そのものではない……と思うのだが。
いや、もしかすると「あの時体験した自分の怒りや悲しみを書いておきたくて」みたいな人はいるかもしれない。表現なくして表象しえないテーマの場合、表現の比重は必然的に大だ。しかしそんな性向の持ち主が、大切な自分の感情の記憶を他人の作品と同じ俎板に乗せようとコンペティションに投稿するのは、なにか不埒で、淫乱で、自身への冒涜者で……ぶっちゃけわかりかねる。承認欲求と言えばひとことだが。傍で見て気障りですよ。

 

実に本屋に並んで、手に取られているのは、テンプレや記号的な表現で読者の負担を減らした、気の利いた物語である。前述のような作品は、一昔前までは出版社や作家名ブランドで飾られてありがたがられたが、いまじゃネットショップのレビュー欄にたちまち忖度のない意見を書き込まれ、埋没する。

とはいえ、表現の芸だって、有史以来の作家に連綿と受け継がれてきた技ともいえるものなのだから、その歴史性ひとつとってみても、守られるべき価値はあると思う。だとすると、このままライトなネット文芸が市場を席巻し、読書世代が変わって本質的にもメジャー扱いになったら、いわゆる純文学的な表現は「伝統文学」とか称されて、いずれは人間国宝が出るような羽目になるかもしれない。

でもまあ、無くなりゃしないと思う。ほんとに。

 

#切腹女子

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