まことに喜ばしきことに表題の件が決定したのであります。開催地はわたくしの地元・鹿児島市です。あ、航空機のチケットを取るのはひとまず以下全文読んでからにしてください。
展示会の具体的な内容に触れる前に、ちょっと言わせていただきたい。
まさか人生で個展をやらせてもらえるなんて、想像だにしていなかったから、大変光栄でうれしい限りである。が、ある一点において、ヒジョーに悩ましい思いを抱いている。
というのは、この展示会はタイトルにぼくの本名を冠しているのである。
これまでは何をするにも“小林アヲイ”という名前で作文やら温泉画やらを披露してきた。だが、今回は違い、“中の人”が出ますよ、と。そのことがぼくになんともいえぬ落ち着かない感じを与えるのである。
普段から本名で活動している人にしてみれば「は? だから何?」ってなもんでしょう。
当人が意識するほど周囲は気にしやしないのも間違いない。
とはいえ、こちらとしてはずっと小林だっただけに、いざ本名で出るとなると、何か不思議な感じがするし、本名というのは普段から名乗らずにいると妙に照れくさい。「小林は遊びの名前。本名は役場や病院で呼ばれる名前」というような、へんてこりんな習慣がこびりついてしまってることに原因があるのかもしれない。
別にぼくは秘密主義的に本名を伏せるためにペンネームを名乗ってるわけではない。名前というものも、一つの表現であると思っているのである。
「ブーバキキ効果」ってのがあるでしょう?
作者の名前の音韻的字面的な印象は、作品そのものの印象に影響を与えうるのではないかと、思うのである。
たとえば、お座敷遊びをするにあたり、二人の芸者のどちらかを呼べるとして、一方を「富士奴(ふじやっこ)」、もう一方を「芋太夫(いもだゆう)」だったとすると、名前だけ聞く限り、やっぱ前者をお呼びしたいじゃん。
つまり、“小林アヲイ”という名前も、一定程度の好印象獲得をはかった名前なのです(少なくとも本名よりは)。うまく作用しているかは分からんけど。
とはいえ、ペンネームについちゃあ、以前に地元文学賞でテレビカメラを向けられた時、「うへえ」と思ったことがあった。小林アヲイという名前で中年のおっさん顔をメディアにさらすのは滑稽な具合になるのではないかと、おぞけが走ったものだ。落選してお蔵入りになったからよかったものの、なにかこう、自分におけるPNの限界を感じたのは事実である。
何にせよ、今回の展示会でぼくの本名はオープンになる。これは確定事項である。自分で主催者様に「こうしてください」と願い出て決めたことだ。
しかしそれは地元レベルの話であって、日本全体ワールドワイドなWEB上ではまだ本名を晒したことがないから……。
いまさらごちゃごちゃ言ってどうする小林。別に後ろめたいことがあるわけじゃなし、むしろ光栄でよいことだ。
ツイッター上でも、今回の件に限っては、本名をフルオープンで堂々と告知しようじゃないのさ。
はい。
しかし考えてみれば、たいへんにありふれていて、個人を特定しづらい名前かもしれんね。むしろ偽名を疑われるレベル。
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記事を読み返してみると、告知なのかペンネーム論なのかよく分からんことになっているな。展示会直前になったら、また告知をいたします。この期間に鹿児島に来る予定のある方、ない方、どうぞよろしくご贔屓のほどm(_ _)m
▼小説の方もよろしゅう。
読め。