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アヲイ報◆愚痴とか落語とか小説とか。

創作に許しを求める私の瓦斯抜きブログ

無責任落語録(4)「八代桂文楽」

は私、ライトノベルというものを読んだことが無い。アニメ化されたものを動画サイトで数話観たことがある程度だ。

「貴様、それで何が【無責任姉妹】だ!」

ごもっともです。
アレは私が初めて書いた「自称ラノベっぽいものです。
読んでいただければ分かると思うが、あんましラノベじゃない(のだと思う)。というより、そうであろうと意識しているが空回りして、年齢がいってるだけに、何か古臭いコントみたいになってる、というのが実情である。

けどさ。

そもそも小説というのは、言ってみりゃあ何らかの「お話」ってだけで、それ以上でも以下でもないと思う。ジャンルとか型っていうのは、後付けされた分類にすぎない。にもかかわらず、そういった分類にはめこんで考える人は多い。

「ぼくワナビ。すなわちラノベ
「おれはミステリーを書きたい」
「わたしはファンタジー」
「ワシは時代劇じゃぞ、おい」

こんな風にあらかじめ自分の居場所を固定して書くと、そりゃあそれなりに、何らかのものができあがるだろうが、それを超える作品は生まれない。ほとんどが「異世界」で「転生」で「ニート」で「チート」な、ああいうサイトみたいに、無縁仏みたいな作品だらけになる。
執筆を遊戯的に行う分にはいい。けれど、プロになろうとか売ってやろうと思う人で、最初から枠にこだわってやる人は、おそらく伸びない→作品はつまらないんじゃないかな。だとすると、読まされる方も溜まったもんじゃない。


て、「枠」とか「型」と言えば  

文芸っていうくらいだから、私は小説を書くのを「芸事」だと思っている。で、芸事には良くも悪くも「」というものがある。

一つの伝統芸能で「名人」と呼ばれる人が世を去ると、しばらくその芸能は冷え込む。芸を楽しむ客の側に、名人の芸風によるドグマが形成されていて、その名人の芸風以外を受け付けなくなってしまっているためだ。

だが、その名人の芸風が、最初はどうあれ、後年にいたるまで正統な芸能の規範の中に常に納まっていたかというと、必ずしもそうではない。案外、芸能の大事な部分を壊して自己流を付けたし、それで永らえてきたという場合もある。

守破離という言葉がある。だからそういうやり方が間違っているというわけではない。
けれども本当に見識のある人は、やっぱりその点に気付き、大名人相手だろうが毅然と批判して芸能の王道に言及する。それが「基本を知っている」ということなのだと思う。

 

語で言うなら、落語の風情や文化に「」を及ぼしたのは八代目桂文楽と言えよう。

しばし落語評論の世界では、桂文楽を「楷書の芸」と呼び、彼の芸こそが正真正銘という言い方をする。そして今なお、ひとつのあるべき姿として称揚されている。

桂文楽の落語は「文楽語」と言っていいほど「型」がある。

  • まくらがほぼ固定
    毎回のお運びをいただき、ありがとうございます。間に挟まりまして相変らず、おなじみのお笑いを申し上げることにいたします。/相変らずおなじみのお笑いを申し上げて、おひまを頂戴することにいたします。
  • もちネタは30程度
    生涯ほとんど入れ替えなし。
  • ひとつのネタは何回やってもほとんど同じ。
    口演内容から扇子を持つタイミングまで同じ。何度やっても演じる時間が20秒と狂わない。
  • いつも主人公は若旦那・幇間・泥棒・盲人
    自分のやりやすいキャラのみ。
  • 独特のフレージング
    図々し学校の卒業生(明烏)/さい、さい、さいこらさ(富久)/親切株式会社の頭取(つるつる)/アタシが許しても天が許しません(よかちょろ)/あばらかべっそん/べけんや/お後がよろしいようで(諸説)

これらの分かりやすい「型」により、桂文楽の落語は聴く者の心に刷り込まれていく。かつて通人に「鰹」と謳われた、古い意味での「きれいごと」の芸だ。

が、正統な芸と言う意味で言ったら、どうなのだろう。

前述の桂文楽の型は、すべて彼の不器用さを物語っている。ネタの数、まくら・噺の内容、固定フレーズ……すべて、負けるイクサをしないための徹底した限定だ。
芸として、芸人として、不器用というのは致命的といえる。

でもね。
実際伝えられたのをそのまんまやると面白くないのが落語だったりする。

林家彦六(故) 金原亭馬生(故)
桂歌丸 五街道雲助 瀧川鯉昇

名前出しちゃ、アレかな? 彼らは正統な芸を継承して素晴らしい落語を見せてくれる。だが、落語という芸能を牽引する噺家になれるのかと言えばあやしい

桂文楽は自分の不器用さを埋める作為の中で、落語自体の持つネガティブな部分まで埋め隠すことに成功した。それで大衆に受け入れられたのではなかろうか。
それが「」となり「ドグマ」となり……。

の後の落語界は、桂文楽との対比で語られていくことになる。文楽と同時代の志ん生圓生。この三人の時代が終わり、いわゆる四天王時代(志ん朝圓楽・談志・柳朝/円蔵)が訪れる。だが四天王の最後の一人が死んでも、いまだに文楽志ん生圓生の方が人口に膾炙している……「型」は根深い。

 


学にも「桂文楽」がいる。
夏目漱石森鴎外志賀直哉中島敦……。
ジャンルという「型」もそうだ。皮相な文学批評は「ラノベは文学じゃないよ」と言い、SFや時代物を色物視したりする。いろいろな解釈があるから直言は避けるが、確かに、いつまでも「純文学」「私小説」では無いと思う。何でも想像して、何でも書いて。既存の「型」にこだわらず、自分のブランドを築いていければよい(もちろん「基礎」というものは確実に存在する)。

そのためには、常にチャレンジだ。

と言って……ラノベの一冊も読まずに「ラノベでござる」で無責任姉妹じゃ、ちょっと無責任かとは思いますわな。ホント。

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