上岡龍太郎が「自分は20世紀までしか通用しない」といっていたのは正しかったといえる。
上岡はウソの蘊蓄ばかり言っていた。それを下敷きにジョークをいって、ウソと気付かぬ聴衆を「へぇー」と納得させつつ笑いをとっていた。しかしその下敷きにした部分は、やはりどこか「ほんまかいな」と思わせるあやしさがあった。そのあやしさと、懐疑を押し流す滑らかな弁舌に、上岡の芸風があった。そして、あやしさについては、20世紀ゆえに可能だった、といえる。21世紀になり、インターネットやスマホが発達して、なんでもかんでもその場ですぐに調べられるようになった。もし上岡が現役で、変わらぬ手法で笑いを取ろうとすれば、すぐに「それはまちがいや」とばれてしまっただろう。SNSで炎上しまくったに違いない。
彼は時代を見据えていたのか、よいタイミングで引退した。ウソのつき逃げに成功した。子息いわく「とにかく矛盾の塊のような人でした」「運と縁に恵まれて勝ち逃げできた幸せな人生」……まったくその通りだと思う。
上岡の発した様々な訝しい蘊蓄は、彼が表舞台を去って20年以上たった今でもいくつか鮮明に憶えている。後で調べて根本的に間違っていることや、根も葉もないことだとわかったこともあった。ただそれでも思うのは「上岡の言ってるウソが事実だったほうが、世界はずっとおもろいやんけ」ということだ。
いつだったか「白夜の地域ではひまわりの首が太陽を追いかけてねじ切れる。ひまわり畑ではぶちぶちと音がする」などと言っていた。後で調べてそんな風にはならないことが分かったが、あなた、考えてみてください。ほのじろい空の下、ぶちぶち音を立てては首を落とすひまわり畑の情景。そんな世界の方がよっぽどおもろいような気はしないか?