アヲイ報◆愚痴とか落語とか小説とか。

創作に許しを求める私の瓦斯抜きブログ

退屈なので陽の射さない1Kから世界を眺めていた

 

約するに近況だ。

ぼくは何にも知らなかった。働くということは、世に出て生きる糧を得るための所作で、なにかもう完全にシステム的なものだと思っていた。つまりはある程度保証がされる行為なのだ、と。

憲法にも「勤労の義務」と書かれているくらいだもの。ゆえに「そりゃ絶対だべ」と信じ切っていた。

もっとも、憲法は国民が政府に与えるものなので(わが国には一寸嫌味な言い方だが)、勤労の要請は政府にこそ課せられているのであり、国民自体に働く義務があるわけじゃあないが。

 

んな風に思っていたのに、去年から会社倒産のニュースが相次いでいる。大企業はそうでもないが、ローカルの中堅くらいは、日々バッタバタと絶命している。我が地元の鹿児島でも、休業・倒産の報せが途絶えない。老舗もベンチャーも同じだ。勤労システムの保証なんてとんでもない。憲法の要請を政府が完遂できない状態が拡大している。

それにしてもこの手のニュースはなんで指標がいつも「焼肉店の倒産件数」なのだろう? 学習塾でも洋裁屋でもなく、焼肉店なのである。

 

が終わる理由は、必ずしも金回りだけではあるまい。零細になれば人手不足も要件にはいる。

ぼくが愛好する赤提灯や町中華たちは、ほとんどが老夫婦がほそぼそとなりわっているような体裁で、せいぜい自転車操業で、人をとるのももはやしんどい。

店じまいの際は枯れ枝のような体をギクシャクさせて「体力の限界」などと横綱の引退会見のようなセリフとともに灯を下ろす。

まあ、こういう人たちは、ある意味潮時を見極めたきれいな引退である。
問題なのは、社員を有する法人だ。

失われた30年という言葉ももう聞き飽きたけど、円安とコスト高で首が回らずにキュッと締めあげられる会社のいかに多いことか。

そこにきてトランプ関税、株価のフリーフォール具合! 月曜日はさんざ地下鉄が止まるのではないかと地下鉄のない鹿児島市民の私ですら心配しているくらいだ。

 

ラリーマンは気楽な稼業と唄った人がいたのは、もう過去の話である。

サラリーマンはその命脈を時代の趨勢に人質にとられている。現代においてサラリーマン一本であることはリスクだ。最近では副業OKのリスクヘッジを奨励したり、リスキリングとか言って「馘になる準備を自主的にしておけ」と言うも同然のライフスタイルが推奨されている。

あゝ、氷河期時代のぼくがまだ若かりし頃、勤め人になることは、思考停止のままに社会人たることを許される予定調和的な行路であった(恋愛も結婚もな)。

それがいま、勤め人であることは、決して安心していてはならない時代。いつ馘になるか、路頭に迷うか、常に警戒していなければならない。終身雇用、年功序列。あれは好景気が下支えした企業文化だったのだ。あれを「やめよう」と言っていた人たちは、決してネオリベだったわけでなく、構造的な欠陥を指摘していたのかもしれない。

 

えてみればぼくが「不況下の勤労者」について何某かの実感を持ったのは初めてのことだ。いや、戦後80年、市場で標準的戦力となっているベテラン現役世代は、ほぼみんな好況時の勤労者しか知らない。みんなで未知に沈み込んでいく、レミングのように。南無。

 

ぼくなんぞの稼業も、去年末あたりから極限の冷え込みで、さきごろ世間ではさくらが咲いたが、稼業は枝振りごと枯死して落ちてきそうである。

まいにち何を食っても砂のような味がする――ような気がする。そんなメンタルのダメージは、蓄積し、体質を変える。脳まで変えちゃう。ちいちゃな、ごくちいちゃな仕事が舞い込んだだけで、脳汁がでる。快が走る。こいつはエンドルフィンが出ているな、と思う。ってことは、フィナーレは近いのか?

 

飢えは生への渇望をますます鋭敏にする。

それがエネルギーに変わるのであれば、苦境が肥しとなっていつか熟々と実ることもあろうさ。・・・ああ、なんと淡白なしめくくり。

 

▼結局はこういう時代になる。

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