三月になり、温かくなってきたので、変な人が増えている。
永久に冬の国のドンが世界中に喧嘩を売っている。
株価は乱高下を繰り返し、首相は「しっかりと」「適切に」の2語を連呼している。
いつものようでいて、毎年確実に少しずつ違う三月。
ぼくは午後からコロナのワクチンを打つことになっているので、そういったすべての風景が惜しまれるような気がしてならない。
ああ、惜別。
今この瞬間も、今この瞬間だ。
そういうわけだから、ぼくは反省し、罰として今日は、ぼくが長いこと勘違いしていた、とある事物について告白する。
それはコメンテータだ。
テレビのコメンテータは、みんなに嫌われている。
ぼくのよくいく居酒屋のカウンターでおっさんたち(定年貴族)が言うには、
コメンテータは専門家でもないくせに知ったようなことをいっている。奴らはツイッターとユーチューブの再生数を上げるためにテレビで派手なことを言っているのだ。
ぼくは別にいいではないかと思う。
しかしコメンテータ批判はリアルにもネットにも、いたるところで言われている。
噂に敏感なはずの当のコメンテータたちは「これはまずいな」とか思わないのだろうか。
テレビ局も、きらわれコメンテータを出演させ続けることをまずいとは思わないのか。
世にひろまるコメンテータ批判がほんとに的を射たものなら、彼奴らがメディアに出続けていること自体国家の害悪で、国益を損なうものだから排除すべきではないのか。
こう考えると、コメンテータを野放しにしておくことは、やばいことなんじゃないかと思わないでもない。
と、これがぼくの勘違いである。
実際のところ、コメンテータは嫌われることに役割があるのではないか、とぼくは気付いた。
コメンテータのコメントなんてのは、人知れず散り落ちた枯れ葉同様で、乾いた風にあおられてドブに落ちて消えるモノ。仮にホントに正しくて大事なことを言ったとしても、情報の波に流されてスルーされ、あとから見い出されても大して称賛はされない。
重要なのは、蛇蝎のごとく嫌われたコメンテータ自身の存在である。
正しいことをいうコメンテータなんて、むしろ鼻につくのだ。
だって、ぼくが居酒屋のカウンタで見るコメンテータ批判は、嬉々として行われているのだもの。
あいつ、若造のくせに何様さ
あいつは何も分かっていない
そう文句を垂れるおっさん方は、このあと、さも有識者ぶってご高説をたまわる。
その内容は、コメンテータの言ってることとさして変わらない、へたくそなレトリックが絡みついた分だけみっともないものだけど、嗚呼、おっさん方のなんとも幸せそうな顔よ。
会社を定年して空威張りをする先がなくなった彼らは、テレビに出ているニワカ専門家をけなすことで、自分の居場所を見つけているのだ。
コメンテータはガス抜きであり、スケープゴートであり、高齢者の精神的な福祉なのだ。
実に結構ではないか。
ぼくもこの件については自分がコメンテータになれやせんかと思うところである。
*
勘違いについて、実はほかにも書きたいことがある。今、手元のメモには、「小説」「体育嫌い」「据え膳食わぬは男の恥」とある。これらについて、ぼくは勘違いし、あるいは勘違いしたままでいたことを認め、またあるいは勘違いのままでいいと思っている。
そのうち書くと思う。書かないとも思う。
じゃあ。