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創作に許しを求める私の瓦斯抜きブログ

無責任落語録(43)「柳家権太楼独演会」観覧記

2022年5月29日(日)、表題の興行が鹿児島市の黎明館で催されました。
お席亭は「落語を愉しむ会」。興行名の冠に『ゆるいと亭』とあるのは、会の別名なのでしょうか。
久々の観覧記をレポートします。

 

とのはじまりはこのチラシである。

不肖小林が銭湯戯画の展示をさせていただいている鹿児島市のコープ玉竜店、その壁に、このチラシが貼ってあった。

ぼくは手にして両面を見、「」と思った。

まず、ネタ出しとして『文七元結』と書かれている。

そして、裏面にはこんな引き句が書かれている。

爆笑王の異名をとる柳家権太楼師匠をお招きすることになりました

 え?「爆笑王」なのに、人情噺をもってくるの?

安直に滑稽噺と人情噺を切り分けて考えるのは思慮が足りないが、おおざっぱに言って、この組み合わせには一抹のねじれがある。

ぼくは「この会には何かある」と直感し、チケットの入手を決心したのだった。

 

代目柳家権太楼師匠の概略についてはご本人のサイトをご覧いただきたい。実力者街道をまっしぐらに駆け抜けてきたベテラン大真打である。


権太楼師匠について、ぼくは以前、動画サイトで『鰍沢』を視聴し、「ぬおおっ!」と感激したことがあった。

通常この噺は、身延詣りの旦那にフォーカスをあてる。受難の挙句、「一本のお材木で助かった」という、なんだかよく分からないダジャレでサゲとなる。
冬山の寒さ、迫りくる殺人鬼に怯える描写が、聴衆を震え上がらせる。十中八九、これをもってよい芸とみなす傾向がある。

しかし、権太楼師匠の『鰍沢』は違った。

フォーカスされるのは旦那ではなく、熊蔵丸屋の月兎花魁。
花魁の悲しみ・憎しみ・後悔・逆上といった破滅型の性格が赤裸々に描かれ、全編鬼気迫る高座となる。
ほとばしるように熱演され、演者も観衆もくたくたになるほどだ。

この師匠はただものじゃぁない。

動画を視たぼくは感激し、『鰍沢』で師匠の名を覚えた。
他にこんなアレンジをする人を見たことはないし、『鰍沢』という噺の魅力を向上させたのは間違いない。
この高座は一つの芸術的成功だとすら思った。

 

の一方で「」と思うネタもある。
営業妨害になるといけないので、具体的に何とは言わないけど、とあるネタを動画サイトで視たら、どうもこう、だれてしまって、ぼくは受け付けなかった。
客席は受けていたから、ぼくの感性がおかしいのかもしれないが、ぼくなりに分析したところ、ある種の軽めの噺を演ると、どうもクドくなりがちである。
つまり、先述の『鰍沢』で見せた熱演の高座手腕が、マイナスに働いているところがあるような気がしたのだ  

 

のように、ぼくは権太楼師匠について、『鰍沢』と『軽めの噺』の質的差異に見て取れる何らかの特徴を感じていた。

そんなさなか、会のチラシを見て矛盾に首を傾げたわけだが、もっとも、次の瞬間、別の察しが湧き起った。

ひょっとしてお席亭は、ぼくが『鰍沢』で感じたように、権太楼師匠の人情噺を滑稽噺以上に見込んでいるのではないか?

これなら話は分かる…ような気がする。
ぼくとしても、権太楼師匠が『文七元結』を演るというから、これは是非視に行かねばならないと思うにいたった。
逆に言うと、どんな異名を持っていたとしても、その他のネタだったら…分からない。

ちなみに、師匠は独演会の数日前、心房細動で入院しておいでだった。『鰍沢』で見せたような激しい高座は見れないかもしれない。
そんなことを気にしつつ、ぼくは会場に入った。

 

さてここからは、当日の高座模様を。

開口一番は二つ目、柳家さん光さん。
ネタは『初天神』の序盤。
口跡鮮やかで聴きやすい。最近の中堅噺家(つまりは落語界で今最も人気の若手たち)同様、デフォルメが効いている。
個人的な感覚だが、最近はこの傾向が顕著で、みんな似たものに聞こえる。登場人物をデフォルメするのではなく、噺のコントラストを調整することで、個性を造形できないか。

お次、主役の柳家権太楼師匠。
楽しいおしゃべりから『一人酒盛り』。
コロナ等、時事の話題は本当におかしかった。すしざんまいで「ワクチン」と「ホルモン」を言い間違えるおばあさんの話は思い出し笑いする。
しかし……本題については、先述の通り、やや苦しい部分が出ていたと思う。
コロナ解禁傾向で客席がスシヅメ、ひといきれが息苦しかったことも相まって、心身ともに苦しさを感じた。
軽い噺は立て弁ぎみに、さらりっと聞きたいところ。

 

入りを挿んで再び権太楼師匠。
ネタは約束の『文七元結』。
冒頭、「さっきの一人酒盛りで疲れて……」。
そりゃあそうだと思う。あそこまでやらなくてもいいのだ。
そして『文七元結』。予想通り素晴らしかった。
やはりこの師匠は熱演がハマる。
ほんとに柳? 三遊では?」と思うほど、やりすぎるくらいやって、それでいて全くクサくない。
落語というより芝居の舞台に近いのかもしれない。
ネタを固めすぎず、登場人物に没入し、その時のその意気で演じていらっしゃるのではないだろうか。
途中「煙草を吸う」という言葉が飛び出て、そう感じた。

 

は噺の中身について、「おや?」と感心したことがある。

それは佐野槌の女将の言葉だ。
これにより『文七元結』のはらむ根本的な欠陥が補われるという、画期的な言葉だった。
それはこんなセリフだ。

(長兵衛に五〇両を返す期限を尋ねるところで)
……じゃあ半年待ってあげよう。半年経って払えなかったら、私は心を鬼にしてこの子を店に出すよ。
いや、全部返さなくたって構わない、毎月二両でも三両でも、お前さんが心を入れ替えて一生懸命働いてるってことが分かるようになれば、私はこの子をすぐにでも返してあげるよ

通常、下線の部分ない。少なくともぼくはこのフレーズを他の噺家で聞いたことは無い。女将は無慈悲に「娘を女郎にする」と言い放つ。そう言いつつ、「女一通りのことは仕込んでおくから」と優しさを見せる。つまりは「お久をしっかり手元に預かっておく」ことを約束する。
それなのに、鼈甲問屋近江屋が手を回すと、女将は娘を返してしまう。きっと女将は事の次第を聞かされ、長兵衛の義侠心に打たれたのだろう。しかし、わずか半日の出来事で長兵衛の性根が矯正されるわけがない

この噺はこのままハッピーエンドっぽく演じられて終わるが、聴衆は納得できない。

長兵衛は何も変わっちゃいねえ
結局あいつはまた博打でしくじるに決まってる
それなのにお久を返しちゃって、いいの、女将?

元結屋が繁盛したことなんざどうでもよく、登場人物の行動のいい加減さに首を傾げる  これがこの噺の欠陥であると、ぼくは感じていた。

ころが、権太楼師匠バージョンだと、下線部「いや、全部返さなくたって構わない~」以降がつくことで、当座の欠陥が劇的に改善する。この言葉によって、女将の判断基準が拡がり、お久の扱いの条件が緩和され、のちの展開を許容する準備が整うのである。
まあ、完全に消えるとまでは言い切れないが、ヒューマニズムを膨らますことで、全てが滑らかにいくような、ごく自然な流れが形成されるのだ。

このくだりが権太楼師匠のオリジナルなのかどうか分からないが、ぼくは権太楼師匠で初めて知ったので、茲に記録しておく。

以上、暴論ぎみだが、久々の落語会の観覧記でした。

権太楼師匠の『文七元結』、思った通り素晴らしかった。さん光さんの前途に期待したい。

いやしかし、コロナにおけるマスク着用……状況が許せばだけど、早くなくなってほしい。人を座席につめて座らせるなら、マスクは危険だ。途中で酸欠と脱水でやばかった。
早く元通りの世の中になりますように('A`)

 

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無責任落語録(42)「かごしま寄席~落語協会 寄席普及公演」観覧記

 

題の件、11/19川商ホール(鹿児島市民文化ホール)観覧にまいりました。その模様を書き留めておきます。

『かごしま寄席~落語協会 寄席普及公演~』

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この公演、普通の落語会とはちょっと違う。スポンサーやお旦の招きで、というのではなく、一般社団法人落語協会の主催で行われる公演である。もしやこれは、古い芸人伝にしばしば回顧される「」というやつなのか? 新型コロナは大分落ち着いたものの、人々の外出控えが続いているこの国の状態で、寄席で待っていても客がこないのならこっちからいっちょう行ってやろうじゃないかと、そういう企てなのかもしれない。一朝一座だけに。

寄席形式の公演はうれしい。囃子も音源じゃなくて、下座さんがいて、太鼓があって。客入れ前に袖で太鼓が鳴ってると空振で緞帳が揺れる。CDじゃそれがない。あの空気がビンビン揺れる感じが「はじまるよ」という高揚感を与える。

番組もいい。一席の持ち時間は寄席同様15分~20分。間にはさまって色物さんの芸を見るのも実に好い。豊かで贅沢な「おあすび」である。どうもこう、落語だけの会とか独演会というのは、長いし、飽きるし、正直どっか苦痛と戦っているところがある。我慢して食らいついて、一瞬の冴えみたいなものをなんとか見つけ出そうと悶えながら聞いている自分にたびたび出くわす。

 

演の内容は以下のとおりでした。

 

速報に載りきらなかったことを書いていこう。

客席はほぼ満席で、おじいさんおばあさんばかり。見渡す限りじじじじじじ、ばばばばばば。なんで年寄りばかりなのだろう。もっとも、金曜日の夕方6時なんて、若い人はみんなまだ働いてるわいな。

オープニングに寄席囃子の生演奏があった。分かりやすくて面白かった。前座のあがり、というのをはじめて知った。出囃子の例で、上方の笑福亭鶴瓶、芸協の三遊亭小遊三の出が掛かった。落語協会の人のを掛けないところが粋なもんだと思った。

開口一番、春風亭一花さんは、口跡がはっきりとして聞きやすく、登場人物がよく見えた。女性落語家はみなさん苦労があると思う。噺を身に刷り込む以前に、登場人物の了見を覚え込まなきゃならないが、なにしろ落語は男が主人公の噺ばかりだ。男の噺家よりも数段大変だと思う。その苦労と研鑽のよるものだろうか、登場人物はこの日随一の輪郭を持っていて素晴らしかったと思う。しかし……不思議なことに、ときたま「落語をしている人を演じている人」に見えてしまうことがあった。この現象ははじめてみた。どういう解決法があるだろう。ううむ。

ロケット団さんは、東京の寄席でも数度拝見している。相変わらずバカバカ受けていた。コロナ自粛の時、動画サイトで寄席中継があってロケット団さんが出ると知り、東京ですごく笑わせてもらったのを覚えていたので楽しみにして聞いたのだが、なぜかぜんぜん冴えがなかった。聞いたことがあったネタだったのに。無観客というのもあるのだろうけど……。だが今公演では爆笑大爆発。一体感がいい。ネタで笑かすテレビ向けの芸人もいれば、観客をどこかにつれていってくれるライブ向けの芸人もいるんだと思う。

中トリ柳家喬之助さんは、脂の乗った力強い芸で客席を圧倒した。最近の落語ブームを引っ張っている若い真打さんと似た芸風なのかしら。前回コラムの彦いち師の項で同様のことを書いたが、このところ、この傾向はかえって無個性に思える気がする。いきおいの中に味わいが欲しい。

林家二楽さんは紙切り芸。切り絵の仕上がりに感嘆の声が続いた。技術もさることながら、テーマにたいして常に客席の期待を超えてくる「そうきたか!」感が毎度心地よい。それにしても話がおもしろい。寄席で二楽さんが出て、後で振り返ると一番笑ったのが二楽さんというケースは多いんじゃないか。あと、聞いていて、声が円丈さんに似てるな、と一瞬思った。

トリは春風亭一朝さん。短い持ち時間の中で、小さなくすぐりを大胆に省き、ラストのお涙頂戴のシーンをたっぷり聞かせる。噺の寸法を変幻自在にコントロールした圧巻の芸である。かといって、噺の骨組みを無理に押し流してしまうことなく、折り目はしっかり整っていて、耳に鮮やか(これは一花さんにも感じた)。笑いどころを惜しまず大いに笑わせる。笑うことは素晴らしいことだと思わせていただいた。ありがとう落語、ありがとう一朝師匠。

 

上、生意気な感想をつらつらと並べてみました。
ひとつ希望を言うと、ひとつくらい新作落語がはさまってもよかったんじゃないかな、と。
引き続き鹿児島での落語公演があったら、覗いてみようと思います。
おしまい。

無責任落語録(41)「第15弾 みなみ寄席 鹿児島特選落語名人会」観覧記

 

ついにネタでも噺家でもなく観覧記になってしまった……

 

とある映像で「鹿児島人はなぜ鹿児島弁を恥じるのか」という切り口の問題提起を視たことがある。鹿児島人が東京など県外の大都会に行くと、故郷の訛りを恥じて消し、無理やりに標準語もどきをもちいることを、いかがなものかと主張しているのである。

しかしぼくは、その問題提起に疑義を呈したい。鹿児島人は別に鹿児島弁を恥じていないと思う。詳しい分析は心理学や人類学の研究を俟つ必要があるが、簡単にいえば方言はプライベート、標準語はオフィシャルで、公私の別がある。どちらが上でどちらが良いというのではなくて、様式的なもの。恥じるのではなく、公私の別をわきまえているだけだと思うのである。

もっとも  鹿児島の場合、他県にはない感情論、すなわち同族嫌悪というものが、歴史的に根付いているかもしれない。

明治の御一新の際、鹿児島から多くの有為の人々が東京に出た。鹿児島に残った連中の中には上京組に対し、出世に出遅れたという思いがあったことだろう。上京した薩摩人が一時の里帰りをし、古き仲間に故郷の言葉で語りかけたりすると、残留組は出世組に後ろ指をさし、忌々しげに言い合った。

「あんしは、薩摩を捨てっせぇ、東京どん行ったくせに、ないがいまさら薩摩ん言葉をつこちょっとか。恥知らずが」
(訳:あいつらは薩摩を捨てて東京に行ったのに、どうして今になって薩摩言葉を使ってるんだ。恥知らずめ)

このように鹿児島人が鹿児島弁を聞いて腹が立つという状況が発生し、それが今日まで波及しているのではないか……と、ぼくは思うのである(私見だ!)。西南の役も実はこうした同族嫌悪が小さな火種になっているのじゃないかと思わないでもない。

テレビに鹿児島出身タレントが登場して言葉の端々に鹿児島のイントネーションがあるのを聞くと  おそらくそれは他県民が聞いてもまったく分からないレベルだと思うが  無性に不快感を生じるのは、彼らが鹿児島という田舎を脱して芸能界という全国レベルの世界で栄達を掴みかけているのを目の当たりにし、明治の薩摩の残留組のごとく、嫉妬や裏切り者感が湧きあがるからではなかろうか……。

 

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てえてえ。

置きが長くなりましたが、とにかくそんなわけで、ぼくが鹿児島出身の噺家さんの里帰り落語会を避けていたのは、同族嫌悪に駆られていたからだと、素直に白状しましょう。

今回観覧した「第15弾 みなみ寄席 鹿児島特選落語名人会」、行く前は正直あまり乗り気ではありませんでした(じゃあなんでチケット取ったんだよ)。

だけど見終えた今では、行ってよかったと素直に思っておりますよ。

今回の陣容は以下の通りでした。

開場13:30 開演14:00

<オープニングトーク 15分>

 春風亭柳若『猫の皿』30分
 三遊亭圓歌『やかん工事中』30分
 桂竹丸バンコク寿限無』30分

 <仲入り 15分>

 春風亭柳之助『里帰り』30分
 林家彦いち天狗裁き』45分

 

内容について、簡単な印象をツイッターで呟きました。

 

その他、呟き足りなかった印象を列記しますと……

開口一番柳若さんは、頭の良さが分かる聞きやすい口ぶり。さわやかさで鹿児島弁があまり気にならなかった。まくらでタイヨー(鹿児島でメジャーなスーパー)の話が出た時は、意外な気付きをえた。というのは、普段CD等で落語を聴いていて鹿児島の話なんて入ること決して無いのだが、ここに『久しぶりにタイヨーで鳥刺しを買って』などと入ることで、非常に距離の近いものを感じた上、それがいかにも自然に感じられた。鹿児島人にとってタイヨーは日常である。そして落語は庶民生活そのものを描き出すものである。親和性が無いわけがない。

歌之介改め四代目三遊亭圓歌の芸風は、以前よりも一層オーバーでより門切的になってきたと思う。独特の呼吸、短く区切った展開。二代目とも三代目とも違う芸風で、間違いなく「歌之介落語」が完成されつつある。よくよく見ていると、身振り手振り、インパクトのつくりかた、声のあげ方は、桂枝雀にそっくりだ。

竹丸師はオリジナルテイストの寿限無の前に、芸協の会長を一人ずつ切っていく小噺をもりこんだ。古くからの落語ファンは満足したと思う。かすかに挟んだ物真似が実は非常に秀逸だった。

柳之助師は人情噺を持ってきた。役どころである。文句なし。

彦いち師の噺はいかにも今風の落語テイスト。最近受けている方々の噺は、登場人物やストーリーがデフォルメを通り越して歪なほど誇張されてる感があり、ドラマというよりコミックであるように思えてならない。それがよしとされる時代なのだろうが、果たして。

総括として……多分にぼくの鹿児島県出身噺家に対する食わず嫌いに等しい同族嫌悪は解消したと思う。なぜかと言われると言葉に窮するが、それを検証するためにも、また機会があったら拝聴したいと思います。鹿児島出身の噺家さんは、この他にも種平さん、白酒さん等々、大勢いらっしゃいます。感染症もあるけどぜひ里帰り落語会をお願いしたいと思います。

 

以上乱暴ですが、観覧記でした。おしまい。

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