アヲイ報◆愚痴とか落語とか小説とか。

創作に許しを求める私の瓦斯抜きブログ

アヲイ、浅黄幻影さんと対面するの巻。

 


このたび『学園コメディ無責任姉妹Rリバイバル)』を上梓した。

 

同シリーズは全て出版停止していたが、今回2016年刊のシリーズ第2部のみ復刊した。

とくに加筆も削除もしていない。いや、一か所「ウイ〇ドウズテンにアップデートされそうになって」みたいな箇所を「新バージョンのウイ〇ドウズを更新されそうになり」に改めた。7年前の作なのでウインドウズテンはさすがに古い。

まだお読みでない方は、是非お手に取っていただきたい。

 

今回なぜ廃刊作品をリバイバルしたかというと、セルフパブリッシング界で活動されている浅黄幻影さんが背中を押してくれたからである。先般、氏と初会合し、意見交換させていただいた。非常に新鮮で有意義で楽しい時間を過ごすことができた。

というわけで、今回は、無責任姉妹のことより、浅黄幻影さんのことをお話ししたい。

 

黄幻影さんはご本人のWEBサイトによると「主にウェブ・ツイッター・AmazonKindleで活動する詩人・小説家」と自己紹介されている。つまりぼくと同じく、主な発表の場をKDPに求める、いわゆる「セルパブ作家(最近あんまり聞かなくなったな)」のおひとりだ。

creation9821.wixsite.com

 

ぼくがKDPで小説をはじめて公開したのは2015年。以来8年「KDPにはいろんな書き手がいるなァ」などとのんきに思っているうちに、いろんな人があらわれては消えていった。大当たりして飛び出した人もいれば、いつの間にかいなくなった人もいる。
そんな中、「ずーっといて、ずーっとリリースしている」方々がいて、その中に浅黄幻影さんはいる。

浅黄幻影。まず名前がかっこいい。文字列を目にしたら、何かこう、影がササっと視界の隅を駆け抜けるようで、気になる。そうなると当然どんな作品を書いているのかも気になる。だからぼくは浅黄さんが自作の無料キャンペーンをされる時には必ずダウンロードした。
浅黄さん以外にも、いろんな方のKDP作品を読んだ。ラノベ、現代小説、ミステリー、SF、等々、多種多様だ。
そんな中で、浅黄さんの作品は、目立つかどうかというと  つまり外連味というと  それほど派手ではない。もっというと、哲学的で、ちょっと難しいくらいである。
そしてぼくは、浅黄さんの作品を読むたび、悶絶して舌を巻く。

「この作品、どうやって書いているんだ!?」

 

黄さんの作品は、研ぎ澄まされた刀のようだ。しかもしなやか

最初に一つのテーマが提示されて、ストーリーの頭から尻尾までまっすぐ貫き、ぶれることがない。登場人物は与えられた役割を忠実に守り、セリフを発し、行動する。対話は右へ左へうねるように織りなされるが、最終的に一つの方向に流れるように計算されている。出来事やアクシデントは、設定したテーマへの問いを確かめるためにおかれており、物語を制御するために設置されることはまずない。

こういうと無味乾燥に聞こえるかもしれないが、実際読むとそんなことはなく、作中にはユーモア皮肉がふんだんに仕込まれている。性的な描写もある(これがまた独特の美感を持っているのだ)。そういうエフェクトを採用しても、物語にへんな毛羽立ちを与えない。印象付けられる色彩は常に一定で、鋭利な質感は損なわれない

くわえて、浅黄さんの作品は自身の哲学的思考を表現することに注力しており、媚びというものがない。いや、まるっきり読者を意識していないわけではない。だが、そこには「物書いて売れよう」とか「作家になろう」といった雑念は限りなく感じられず、だからこそ読み手に純粋に「このテーマについてあなたはどう考えるのさ?」と迫ってくる。読者のスタンスをもテーマの切っ先で貫くのである。

このように、浅黄さんの作品は、テーマ・細部・全体にわたり配慮しつくされ、気の抜けているところが一つもない。まるで全体が精緻な彫刻で覆われる芸術建築のようである。しかもその精度がリリースされる作品のほぼ全てにいきわたっている。芸術建築が街をなしているのだ。ぼくのような雑然とした人種には、人間技とは思えない成果物なのである。

 

こまでくると、浅黄さんはどうやって小説を書いているかより、そもそもどんな人間なのか疑問になる。

「もしかしたらコンピュータ人間なのではないか?」

作品の頭から尻尾まで高い水準で一貫した緻密さを維持するには、人間離れした集中力が必要だ。しかも延々と持続する集中力。そんなことコンピュータ人間じゃないとできっこない。

コンピュータの比喩はともかく、筆致や表現から類推して、正直、男性か女性かさえ想像がつかなかった。年齢はWEBサイトで知り得たが、どのような日常を送っている人がかくも緻密な文芸彫刻をなしうるのか(つまり「時間の使い方」という意味で)、さっぱりわからない。たぶん、すっごく自律的できびしい人ではないか……でもSNSではラーメン食べまくっているなぁ……お酒も強そうだし……等々、ますます分からなくなっていた。

 

んな正体不明な浅黄さんと、令和5年のハロウィンの晩、ついにお会いすることができました。こちらからお願いして、お出ましいただいたのである。SNSでつながって約8年、もはや他人とは思えない初対面。浅黄さんがコンピュータ人間だったかどうかはここに記さずおこう。

シンジク

ブロンド犇めく新宿。ワインを交わし、打ち解けてKDPや文芸のお話しをさせてもらった。身近にそういう話のできる人がいないので新鮮。話の中で「無責任姉妹」の良かった点を言っていただけた……そのことが同作のリバイバルにつながった。本当にありがたい。

 

、ひとしきり飲みかつしゃべり、「また会いましょうね」とお別れして家路につき、その後ハッとした。

「あッ! 何も解決してねえ!

確かに本物の浅黄幻影さんにお会いした。
作品の実制作者たる浅黄幻影さんと話をした。
しかし、浅黄さんがあまりに人間味があってあったかい人なので、あの緻密な彫刻建築的文学作品のカーペンターだという事実と、どうしても結びつかない

「……あの小説、どうやって書いてるんだろう?」

こうして疑問はふりだしに戻ったのでした。
こりゃあ、もう一度会わなければならない。
どんな人間が、どんな理由で、どんな性情をもって、結果、どんな作品を表現するのか。興味はいよいよ強まった。
これはKDP、あるいはネットが創造した、新しい文芸的なつながりの楽しみ方なのだな、と思った次第である。

 

というわけで、みなさんぜひ浅黄幻影さんの作品をご覧になってくださいね。
そんで、よかったら無責任姉妹Rもよろしくお願いします。

 

 

映画を観た。『アントニオ猪木をさがして』

 

表題の映画を映画館で観た。映画館に入るのは15年ぶりくらいだったと思う。

 

※ 以下、ネタバレはあんまりないけど、厳しいことも書いているので、ご理解を。

 

和4年(2022)10月に死去したアントニオ猪木の足跡を追いつつ、関係者が回顧を述べたり、現役レスラーが思いを語ったり、ドラマ仕立てで猪木に興奮した日常を懐かしませたり……というドキュメンタリ映画である。各人がそれぞれに猪木への思いを馳せるという意味で、「アントニオ猪木をさがして」というポエットな題がつけられたのだろう。

観賞して思ったのは、まさにこのタイトルの通り「主語のない映画だな」と。

この映画を前に、人は三つに分かれる。そのそれぞれが主語となりうる。

① 猪木の現役時代を知る古いプロレスファン
② 猪木の現役時代を知らない最近のプロレスファン
③ プロレスにも猪木にもさしたる興味のない人

最後の③は「初めっから観に行かないだろ」と除外されそうだけど、それは拙速だ。プロレスと無関係に純粋にドキュメンタリ映像作品として評価を行うための視座であり、この視点がなければ作品を公正に判断できない。

 

の①②③を主語に据えてこの映画を見るとどうなるか。以下、想定してみよう。

 

①猪木を知る古いプロレスファン

旧来のプロレスファン、とくに猪木信者が該当する。ぼくもここに含まれる。とかくファンというのは、物心ともに蒐集癖のあるものだ。ファンの脳味噌にはありとあらゆる映像と写真がインデックスされている。銀幕に映し出される映像や写真は、正直言って既視のものばかりだった。何も目新しくない。初出のものはごくわずか。

しかも、映し出される時系列はばらばら、インタビューに応えるOBの偏り、古館伊知郎・村松友視ターザン山本など猪木思想の解析者たちの不在……古いファンには残念な点は多いと思う。

ネット時代のこともあり、ちょっとコアなファンは、猪木についての情報をかなりもちあわせている。ということは、こういう映画を見る時に、「何が語られているか」でなく「何が語られなかったか」ということが、かえって気になる(「誰が出なかったか」はもっと気になる)。

まあ、どうやったってマニアを納得させるのは無理だ。そこは承知でやる仕事だ。「何を言いたいか」を強めに押し出し、選択と集中を図る必要があったと思う。

 

②現在のプロレスファン

新日本プロレスV字回復以降のファンである。つまり猪木の現役時代を知らず、猪木がオーナーとして新日本プロレスに格闘技路線の圧力を及ぼしていた低迷期を知らない人々でもある。

彼らがこの映画で視座に据えるのは棚橋・海野・オカダ3選手だ。ぼくは①なので、このファン層に感情移入するのは難しいが、このファン層を「猪木をリアルタイムで見ていない人々」と定義した場合、次の視点に立ったら疑似的に移入できないかな、と考えた。

すなわち「もしも『力道山をさがして』という映画があったら」。

早い話が、時代をスライドさせて自分自身を「新しいファン世代」に置き換えてみよう、と……無理はあるけど笑

馬場も猪木も力道山について語る時、その人間的部分に首を傾げていたが、レスリングビジネスやイデオロギーについては否定せず、黙って受け入れている。
「馬場と猪木は師匠越えを果たしたか?」
もし古いプロレスファンにこんな問いを放ったら、「今さら何を」と一笑されるだろう。愚問扱いされるがオチだ。

ところが、この問いを愚問に追いやったこと、つまり師弟比較を世間にさせなかったことに、馬場と猪木の巧妙さがあったと思う。二人とも力道山を神格化もしなければ否定もしなかった。力道山に触れるのは危険なことだ。声望もカリスマも勝てっこない。日本のプロレスマーケットは力道山の喪失と共に衰退していきかねなかった。それを避けるため、馬場・猪木は長期にわたる二項対立を演出してファンの目を釘づけにし、力道山をまるで戦後の歴史上の人物か何かのように遠くへ追いやった……(私見)。

さて、本映画では、棚橋は道場の壁から外していた猪木のパネルを元に戻すと宣言した。海野は、プロレスに「怒りは要らない」と言った(※猪木はかつてプロレスを怒りの表現と説明したことがある)。オカダは脳内で猪木戦をシミュレートした。

三者とも結局は猪木概念の中にいた。

猪木のことなど、力道山同様、歴史上の人物に片付けてしまい、次代へ駒を進めればよいものを……。

特に残念なのは棚橋だ。猪木問答における回答のずらし方は刮目すべきものがあった。しかしここにきて猪木を語ってしまったことに、そしてパネルを戻したことに、腑に落ちなさを感じた。だいたい……気をつけろ。くりーむしちゅー有田は①の人間だ。


③プロレスにさしたる興味のない人(作品批評視点)

ドキュメンタリ映画の評価は、メッセージ性と取材・構成の巧みさをもってなされるべきである。当然その立脚点には中立性、報道に求められるようなジャーナリスティックな視座が要求される。

しかし……ぼくには分からない。大手マスメディアの枠外で紡がれるドキュメンタリ映画は、その中立性・報道性をどの程度保証できるものか。もしかするとドキュメンタリのそれは信憑性でなく、監督の訴求指向そのものにあるのかもしれないが。

この映画には、中立的視点はなかったと思しい。ざっくりいえば、ゆるい猪木ファンが作った映像作品のようにしか見えなかった。

昨今封切られたアメプロドキュメンタリ映画に『レスリングウィズシャドウ(完全復活版)』『アイアンシーク』がある。ぼくは前者は未視聴で後者は視たが、後者はイランの亡命レスラー、コシロ・バジリを、一貫した視点で描き出している。エンターテインメントビジネスに身を捧げた一人の男の、栄枯盛衰・毀誉褒貶が赤裸々になっている。そう、まさに「人間が描かれている  だから感動がある。作品のメッセージを、アメプロファンならずとも理解でき、咀嚼できるのだ。

しかるに本作は…

「猪木さんは不思議な人だ」
「すごい人だ」
「まねできない」

登場する関係者やタレントの誰もかれもが、そんなことばっかり言っている。それぞれ本心なのは分かる。けれども猪木を知らない人、プロレスを知らない人がその発言で何かを裏付けようとするには、もう少し本質的な情報の開示と解釈が必要だ。つまり、主役たる登場人物(人間・猪木)をもっともっと描く必要がある。ぶっちゃけ、そこがスタート地点だ。しかし本映画にはそれがほぼない。最初のブラジル時代のインタビューくらいのもので、頭でっかちに終わっている。

この論に限って①の意見を持ち出すと、一般ファンは猪木のそばに居れたわけじゃないから、インタビューされた人々ほどリアリティはないけど、逆にその分、ファンタジーは持ち合わせている。

だったらそのファンタジックな部分に、何かを叩きつけてもらわねば納得できぬ。

もっと鋭く、あるいは乱暴な切り口でいいから、今まで誰も言っていないような猪木観を示してもらわんことには、人間・猪木を描き出すドキュメンタリ映画として成立しないだろう。

 

の映画は客観的なドキュメンタリというより、アントニオ猪木をモチーフにいくつかの文芸的な試みをおこなって、満遍なくファンのご機嫌をうかがおうという、ぬるぅい姿勢が感じられた。

冒頭、猪木のルーツをたどってブラジル取材へ赴く…これは長編小説の出だしのように大きな物語の予感を思わせて悪くない導入だ。

奇抜なのは六代目神田伯山によるオリジナル講談『猪木斉藤巌流島の一戦』。日本の伝統芸講談で、当代きっての人気講釈師にしゃべらせる。なんとも贅沢だし、発想としても悪くないが、しかしどんだけ語ってもテレ朝やYOUTUBEにナマの映像が残っているんだから、惜しい芸である。「講談師 見てきたような 嘘をつき」という川柳がある。誰も見てない物事を名調子で語るから面白いのであって、試合を映像で視たことのある人には、何のための何なのかつかめない。この催し物に限っては、猪木ファン向けではなく、伯山ファンのためのものだろう。あるいは、ご当人がファンであるとのことだから、鎮魂の法事みたいなものか。

ドラマ仕立てパートはどういう意図でつくられたのか、理解に苦しむ。前述した①②③のファンの誰に向けられているのか? ①にはあざとすぎ、②には「結局古いファン向けかよ」と目を背けられ、③には「再現する意味は?」と突っ込まれる。尺と労力を別のことに費やしてほしいと思った。

というわけで、タイトルに主語のない映画『アントニオ猪木をさがして』は、想定しうる主語①②③のいずれをあてはめても、なんとも腑に落ちない、なんだかちんちくりんな、煮え切らない代物に留まっており、結局①②③のどれとも満足に接続しえない、正真正銘の主語不在の映画になってしまっている……と、ぼくは思ったのだった。

 

   *

かし驚いた!
というのは、ぼくはお友達のNと二人でこの映画を見に行ったのだけど、約80人収容のシアターで、観覧したのはぼくらたった二人だった!

まあ、おそらく、多くの猪木信者はこの映画を見ようとしないだろう。
理由は簡単だ。

タイトルと、コピー「元気ですか!?

これでは期待できない。安直に過ぎる。

今まで多くのプロレスや猪木コンテンツを見てきた人間にしてみれば、こんな名付けや売り文句はありえない。特に古館言語を身に浴びてきた世代は、何のひねりもないままにある程度重要な語句を使われると、むしろ冒涜を覚える。プロレスとは、言葉に依るところのきわめて大きい娯楽だ。新しいファンは知らんけど。

 

映画を観た後、友人Nと酒宴をし、一人帰宅してYOUTUBEでプロレスを見た。昭和44年、第11回ワールド大リーグ戦、アントニオ猪木 対 クリス・マルコフ。まだ延髄斬のない頃の猪木が卍固めで優勝した。若獅子猪木が初めて馬場を超え(直接対決ではなくリーグ戦の点差だが)、日本プロレスのトップに立った瞬間である。
猪木をさがすならここからさがさねばならない。

 

▼あたくしのものしたプロレスの小説です

演技における子供の棒読み・空泣きについて。

 

実の子供を観察していると、刺激に対し、固まっていることが多い。
たとえば「将来何になりたい?」と尋ねたとする。
普通の子供は、指をくわえて訝しげにこちらをじっと見、黙っている。固まったようになっている。
それで大人がもう一度「何になりたいの」と尋ねる。
すると、ようやく小さな声で、「あぶらむし」とかわけのわからんことを言う。

 

演技においては、このリアルをそのままやっても芝居にならないので、演出家も子役もそれなりの工夫を図る。
「将来何になりたいの?」
おませさんは間髪入れず自信満々のリズムで
「世情を鑑みれば公務員かしら!」
よく天才子役という評があるが、それはほとんど「この子役すげえ」「ガキのくせに」という違和感で、本質的な賞賛ではない。

 

どこの誰が考えたのか、前述の子供の固まり現象を抽象化し、棒読み・空泣きを開発した人は、空前絶後の演出家である。確かにぎこちなくて変だけど、いかにも子供を感じられる。不器用なありさまに同情を誘う。

空泣きの仕草は歌舞伎の所作で、両肘を耳の横に引っ張って、前腕を目の前で水平に構える。そして頭を左右に振って、「えーん、えーん」と声を出す。その時腕は一切動かさない。実際に泣いてる子供は頭を動かさず手を使って涙をぬぐうのだが、ここに演技の嘘と妙がある。…と、何かの枕で桂米朝師匠が語っていたような。

 

子役にしてみれば、おそらく棒読み・空泣きの方が、流暢な演技より難しいだろう。なぜなら、子役らしい演技を役柄にあてはめるという、劇中劇じみたものを要求されるからだ。
「私1歳から出てるの。芸歴10年よ? まだそんなことさせるわけ?」
「先生、そこをなんとか」
さすがにガキでも芸歴が重なれば、演技がこなれているはずだ。緊張だってしないだろう。その子に、子役の演技で役をやれという。矜持としても引っ掛かるし、かつて立川談志師匠も「ヘタの真似をやるのはむずかしい」と言っていた。

 

かし、この技芸を「腹芸」と呼びかえるなら、大人だって必須のウェポンである。仕事の難局に、恋の修羅場に、借金の踏み倒しに、肘を張って「えーん、えーん」と空泣きすれば、「しかたねえなこいつ」と、なりゃあしないか。

いや、ならないよw

 

▼天才子役に演らせたい。

 

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