アヲイ報◆愚痴とか落語とか小説とか。

創作に許しを求める私の瓦斯抜きブログ

無責任落語録(24)「三代三遊亭金馬」

段、生身の人間と話す機会がほとんどない。そんな状況で日々動画共有サイトなどの落語ばかり視聴しているから、私の耳に入ってくる人間の声は9割9分は落語家の声である。それもほとんど鬼籍の人。おまけに、こういうブログを誰が読むともなく、金になるわけでもなく、たたただ純粋に好きだという一心から書いているわけで、私の脳みそはまるっきり落語オタクなのである。

そんなだからごく稀に人に会っても、ついつい落語の話をしてしまう。いや、落語そのものの話をしなくても、自然と落語用語を比喩や引用で使ってしまう。

あいつらはゲンベエさんにタスケさんだからなあ。

え? ぼく? もう一杯ビールが怖い。

んでさ、その時の道中の、陽気なことォ♪

これはもう病気だ。
ちなみに、上記の元ネタが分かる人がいたら病気の可能性は多少あるけれども、この程度じゃまだ全然軽症なので、もっと落語を聴きなさい。

 

の友人はみなとてもとてもいい人たちばかりなので、私が落語好きであることを知ると、興味を示して(社交辞令なのかもしれないが)こんなことを尋ねてくれる。

ねえねえ、落語って、誰のを聴いたら面白い?

女性からこんなことを言われたら、求婚されたかと思うくらい喜ぶ。といって男から聞かれても、別に悪くは思わんぞ。

この質問、実は非常に難しい。今の噺家で挙げるか、私が好きな噺家(鬼籍込み)で挙げるか。ただただ笑えるものを挙げるか、落語芸として秀逸なものを挙げるか。落語布教のチャンスである。失敗は許されない。誤ってその人に遇わないものを教えて「つまんねえ」とか思われたら最悪だ。きっとその人はまた別の人に「アイツが落語面白いって言うから聴いたけど、時間の無駄だった」などと言いふらすだろう。悪い噂は良い噂よりずっと早く広まるという。嗚呼、この苦悩はおそらく、BLを布教する腐女子における伝導の困難さに通じるものがあるだろう。

 

心者に分かりやすく、聴きやすく、面白く、なおかつ「ほかの噺も聴いてみたい」と思わせる落語家とは  。いろいろ考えた結果、私は三代目の三遊亭金馬師匠こそその役にふさわしいと思う。

野太い声ながら表現豊か。調子はなめらかで卒がなく、噛むことなんてほとんどない。元は講釈師だったそうだが、雰囲気がおかしいからお客がどうしても笑ってしまい、勧められて落語に転向、初代円歌に入門したという。

リズムがあって知性もあって、飾らない可笑しさがある。実際、数多くの随筆を残し、エッセイストとしても優れている。見た目のインパクトもすごい。つるっつるのやかん頭に出っ歯。一度見たら忘れられない濃さがある。一名「やかん先生」。

演じるのはほとんど古典落語だが、新作も多く、秀作ぞろいだ。ぜひ聞いてもらいたいのは金馬の最大の当たりネタ「居酒屋」である。耳に残るのは、小僧さんの御品書の読み上げだ。

できますものは、つゆ、はしら、たらこぶ、あんこうのようなもの。ぶりにお芋に酢だこでございます。ふぃいぃぃぃ。

セリフを調子よく諳んじることにかけてはこの師匠を超えられる噺家はあるまい。耳に馴染んで心地の良い口調は、さすがは講談出身である。

孝行糖の本来は、うるのこごめにかんざらし、かやにぎんなん、にっきにちょうじ、チャンチキチ、スケテンテン(孝行糖)

古い蜀山の歌に「まだアオい、シロ(う)と浄瑠璃、クロがって、アカい顔して、キな声をだし」なんて川柳がございます(寝床)

その他にぜひ聞いていただきたいのは「勉強」「真田小僧」「高田馬場」など、枚挙にいとまがない。人情話では「藪入り」も秀逸だ。

 

ういえば、自分のやかん頭を見せてしばしばこんなことを。

まだわたくしの頭に緑の黒髪はなやかなりし頃  どうぞ、そう緊張なさらずに。

客がどっと笑う。客席の空気を見事にコントロールする自虐のフレーズにも,ひとつかみの知性が漂う。六代圓生大山詣りで自分の薄毛を笑いにする録音があるが、大看板の自虐ネタは反則級の弛緩術である。

 

は大好きだし、事実誰が聞いても楽しくなれる金馬師匠なのに、往年の落語界での評判はあまり芳しくなかったようだ。当時の落語評論家は金馬の落語を俗っぽすぎるとしてこきおろした。トリで金馬が上がったら嫌な顔をして帰ったという。また、志ん生圓生は金馬とリレー落語を演って「ひどい目に遭った」とこぼしたそうだ。

評論家も両師匠も、何がそんなにいやだったのか。

金馬は途中から東宝専属になり、寄席には出ることができず、半ば孤高の落語家となる。それでいて往時もっとも売れた落語家だったから、おそらくやっかみみたいなものもあったのだろう。また、落語そのものも、活躍の場が普通の落語家よりラジオやレコードの割合が多いために、抑揚や声音に寄るところが大きく、演り方がオリジナル化しているところがあったのかもしれない。

けれども、桂文楽はとある落語会の顔付けを見て「なんで金馬さんがいないの」とメンツに疑問を呈したと言うし、志ん朝・談志は金馬を大きく評価している。事実、古い人に尋ねれば、金馬落語で落語好きになったという人は多い。あの調子のよさ、鮮やかさを聴いて、落語なんて不愉快だと云う人はいないだろう。

しばしば桂文楽を「きれいごと」「楷書の芸」などと評するが、この人もまた同様である。両者とも三代三遊亭圓馬(橋本川柳)の薫陶を受けたというから、圓馬師にそのルーツがあるのだろう。確かに両者には圓馬師に通じる口跡がある。

   *

最近、落語がますます流行っているようです。

これは、とある噺家さんに直に聞いたのですが、落語は流行るとダメになるんだそうです。というのは、寄席の客が甘くなって、演る側の芸どころが鈍るんだとか。たしかにホール落語一辺倒の流派はクサイですもんねェ。

実は落語の入り口って難しいのです。

中年世代の自称落語好きに尋ねると「桂枝雀から聴きはじめた」って人、多いんですが、この人たちも結局枝雀から広がらない。枝雀ファンで停まっちゃってる。彼があまりに面白すぎるから  と同時に、彼はすでに古典芸能としての落語からだいぶ離れていました。そこ行くと、談志ファンはきちんと古典落語に流れていきましたね。さすが家元だ。だいぶ改作されましたけど。

もしこれから落語を聴いてみたいなという方には、ぜひ金馬師匠を聴いて欲しいです。落語耳の基礎となること間違いなし噺家に限らず、ネタのみならず、落語そのものがスッと入ってきますから。

以上です。 

無責任姉妹 2: 漆田風奈、逆上ス。 (さくらノベルス)

無責任姉妹 2: 漆田風奈、逆上ス。 (さくらノベルス)

 

 ▲立河団十郎が三題噺「鰍沢」を演ります。

 

アヲイ、あだちしんご氏と九州を一周するの巻。

互いに時間だけはたっぷりあるので、ちょっと何かしようと、私の軽自動車で九州一周をすることになった。二人ともそろそろいい年なので、まだ「若い」と言えるうちに大学生みたいなことをやっておこうという、ま、遊びだ。ドライブのでっかいやつ。秋で気候もいい。

 

10/17 一日目 鹿児島―宮崎―大分

出発点は鹿児島県。鹿児島空港
今回のプロジェクトのために満を持して鹿児島に降り立ったあだちしんご氏をピックアップし、車は東へ。九州を反時計回りするのはなぜか最初から暗黙のうちに決まっていた。

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国分市から鹿児島ー宮崎の県境を経て都城市を通過。無限ループのような田舎道を経て宮崎市内へ。

味の名店、おぐらチェーンのチキン南蛮を食そうと思ったが大人気で駐車場が満車。時間が無いので後ろ髪を引かれる思いで市中を後にするが、やはり地のものは食べたい。すると目の前に巨大なイオンが。イオンのフードコートにチキン南蛮の美味しい店があった。

www.golikego.jp※ 2021/08/04リンク更新

 

は日向・延岡に向けて北上。日向灘はどこまでも青く、延々と続いて、10分もすると飽きた。おまけに想定以上に時間がかかり、このままぢゃ一日目の宿泊先・大分に着かないぞと、さっそう高速道路に。当初の「下道だけで廻ろうぜ」という熱いスピリットは、アラフォーの柔軟性の前に霧散した。門川から延岡道路→東九州自動車道に乗り、大分光吉まで。宿に着いた頃は薄暗かった。アヲイは都合八時間運転し、思考回路は乱れに乱れ、言動は常軌を逸した。食事の際、物を飲みこんでも喉の右半分に通っていく感覚が無かった。これは喉頭癌かもと、ちょっと怖かった。

 

10/18 二日目 大分―北九州―佐賀

日の強行軍でトチ狂っているアヲイがナビで、あだちしんご氏がハンドル。大分市内を通過し、車は別府湾を望む。最高の眺望だ。湾の向こうに立ち並ぶ白い建物。まるでニースだよ(行ったことないけど)。別府は九州の観光地で五本の指に入る温泉街。実に美しい。これをやり過ごすと大分の真の姿である無限の山林が続く。日出からは国東を回らず山道を北上し、宇佐へでる。右手に周防灘を見ていると、風景が徐々に街になっていく。北九州空港をやりすごすと、まもなく小倉である。

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私は小倉のことを「小倉市」かと思っていた。北九州市の中のひとつの区だったんですね。道路が意地悪のように複雑で、車線変更にしくじると何ブロックも迂回させられる。国道10号線だというのに。これ、ほんとうに地方出身者には酷です。「酷道」の揶揄は何も田舎道ばかりじゃないですよ。

昼食は小倉で。けれども小倉の地のものってなんだろう? ネットで調べたら焼うどんとラーメンがやたらとヒットする。なんかねえ……ってんで入ったのがお寿司屋さん。

r.gnavi.co.jp

鰹ブルーチーズの握り」が激好みでした。

 

日目も、昼を食した時点で時間が想定よりもカナリ掛かっていたので、三号線を西へ走り、大谷ICから高速道路に乗り込む。

ここで言っとくけど、グーグルマップの予想経過時間は、かな~り短めに出る。信号も渋滞もカーブで減速もなければそれくらいなのだろうけど。なんらかの演算式で出しているのだろうが、日本はアメリカみたいに道は広くないし真っ直ぐじゃないぞ。距離にして50~100kmの移動なら、1.5倍くらい割り増しで考えた方がいい

それにしても高速道路は早い。めちゃめちゃ早い。日本の田舎は山だらけなので、下道を行くとウネウネ&アップダウンで疲れるし時間もかかる。高速道路はそこを真っ直ぐに貫いちゃうわけだから、早いはずだ。その代わりトンネルだらけなのでトリ目の私にはかなりキツイ。

大谷から南下して佐賀県佐賀市へ向かう。高速のお陰でかなり早くつきそうなので、鳥栖で下りて下道で佐賀に向かおうと、余裕をぶっこく。

佐賀市は……あった

夜は佐賀の地元料理で舌鼓(ベタな表現だな)

r.gnavi.co.jp

燗をしろだのいろいろ無理を言ったかも。すみませんでした。新人さん、がんばれ。

 

10/19 三日目 佐賀―長崎―天草

通、長期の旅というのは日を追うごとにどんどん疲れていくもののような気もするが、アヲイは徐々に回復してきた。一日目が長距離過ぎて精神崩壊寸前だったからかもしれない。

車は佐賀市を出て西へ。高速で武雄から長崎へ。もう下道の意志なんてとうに掻き消えている。高速があるなら使おう、そして早くついて、遊ぼう、呑もう、それだけだ。

長崎に着いた。ここの道路は恐ろしい。五叉路、一方通行、強制左折レーン、路面電車と共有、坂道などなど、バラエティーに富んでいる。だいたい都市の交通を批判する時は、運転マナーで比較される。大阪は荒い、名古屋は荒い、など。ここはそうじゃない。もともとの道路がすごい有様なのだ。

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まあ、無理も無い。長崎は山と海ばかりで人の居住できるスペースは沿岸にごくわずか。そのちょっぴりのエリアに、道路だの家だのぎゅうぎゅうに押し込まざるを得ない。山を見ると斜面に建物がびっしり。九州でも数えうる壮観の一望である。

ここでは港湾部のデッキテラス、出島跡、中華街を散策した。修学旅行時期らしく、女子高生をたくさん拝めた。

もちろん名物角煮饅を食す。これが昼飯。

【岩崎本舗】質の時代の自信作 長崎角煮まんじゅう

 

崎を出て、諫早・雲仙を通過し、南島原口之津へ。ここからフェリーで天草に渡る。曇天で普賢岳が拝めなかったのは残念至極。天草に入ったのは四時ごろだった。前日・前々日と比べるとだいぶ時間が余っている  実は当初、天草に宿泊する予定は無かった。旅をしながら予定を変えまくったのである。そもそもホントは二泊三日で九州一周の予定だった。旅を開始してまもなく一泊のばした。「ムリ!」ということで。計画性なさすぎ。

天草は街灯が少なく、夜になると真っ暗で、スーパーが八時に閉まるような静かな街だ。

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だが、ホテルの主人が教えてくれた居酒屋は、活気があり、なかなかイケた。

yahiro.sakura.ne.jp

草大王なるものを食した。大王ですよ。もちもちしてました。なんでしょね。
ここでは、かつての「ムツゴロウさん」に似たナイスガイと談笑した。なかなか会話も弾んだが、こちとら疲れていて、ごめんね。まあ地元の人とコミュニケーションできて良かった。プライスレスな気がして。

 

10/20 最終日 天草―長島―鹿児島

草を出て南の牛深へ。島の中央をぶったぎる国道を走ればすぐなのだろうけど、最終日にして旅を楽しみだした我々は、海岸沿いの県道26なる引き伸ばした小腸みたいな細道に進路を取った。入り組んだリアス式海岸、湾は凪で、道路は水面に近く、車窓の風景はまるで湖畔をゆくボートのようだ。でも一車線しかないところが多く、ハラハラしながら景色を堪能した。

ホラーなトンネル、あります。熊本県道26号 松崎トンネル

 

深からフェリーで蔵之元へ。そこはもう鹿児島県だ。黒の瀬戸大橋を渡ったところで、海沿いにあるあらかぶの名店に。

道路から海岸までの落ちるような半舗装の道が、胃をきゅるきゅるさせて、食欲を増進させることうけあい。のどかな海を眺めつつ、一日10食限定の日替わり膳を頂戴した。
※追記:「磯の味 黒之瀬戸」は2020年5月に閉店

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長島から阿久根を通り薩摩川内市から高速道路に乗って、鹿児島に着きましたとさ。
一件落着。


<総評>

これまで、旅はポイントからポイントまでのプロセスを愉しむべきものと思っていましたが、それはお遍路のように自分に向き合うのが目的の場合に限ると思いました。いや、もしや、私に自分に向き合うだけの何かが足りなかったから、お遍路になれなかったのかもしれません。

自らを省みる人は、あらゆる旅路が遍路の道程である。(俺某)

それにしても、インフラに助けられました。コンビニはすごい、高速道路はスゴイ、スマートフォンはすごい、予約サイトはすごい、道路看板はすごい。それにもひとつ、軽自動車の低燃費もすごい。車のカウンターを計測したら総計946キロを走ったわけですが、満タンでスタートして途中の給油は一回のみ。おかげで思ったより金は使わなかったな。

ほかにもいろいろ思ったことはありますが、まあ、ひとまず、こんなとこ

 

、あだちしんご氏が新作を出しておられます。

 

無責任落語録(23)「めけせけ」

書の秋だというのに、KDPにまつわるあれこれを眺めていると、混沌としている。講〇社が抗議文みたいなメッセージを掲出して引き揚げたのをはじめ、読み放題の失策をあげつらう噂話が方々で聞かれる。読み放題以外にも、最近はアカウント画面の反映が遅かったり、数値が違っていたり。アマゾン屋さんは、きっと滅茶苦茶忙しいのだろうな。

そういえば、読み放題とは関係ないけど、こないだ「オヤ?」と思うことがあった。先日、何気なく自作のとある巻のアマゾンページを見たら、162円に設定していた値段が勝手に0円になっていたのである。実はその巻、よそのサイトでは常時0円で配布をしており、アマゾンのみ有料にしていた。でも……プライスマッチの申請は出していないのになんで? 

私は100%アマゾン屋さんの手違いだと思い、さっさと戻してもらうべく問い合わせた。ところが、アマゾン屋さん曰く「それでいい」のだ、とのこと。そのココロは…

Amazon では、価格競争力を最大限に高め、Amazon の出版者様にとって最適な販売環境を実現するために、慎重な協議のうえで本の価格を決定しております。また、すべてのマーケットプレイスの小売価格は Amazon の判断により決定させていただくことになっております。云々

なんとまあ。

まあ0円のままでもよかったんだけど、試しによそのサイトの値段を162円にしたら、いつと知れずアマゾンの価格も同額に戻っていた。こちらから「よそを有料にしたよ」と伝えたわけではない。一時期「0円にしたいのにプライスマッチ申請が通らなかった」というツイートが流れていたことがあったので、無料にするのは大変なのかと思っていたが、まさかの強制0円には驚いた。

それにしても、ほとんど売れてやしない私の作品に対して、リサーチというか、チェックというか、アマゾン屋さんの注意が行き届いているのは、すごいなあと思う。ご苦労様です。ほんと、最初は何が起こったのかと、わけが分からなかったよ。

 

の中、わけの分からないことだらけだ。
私たちの社会は、秩序の枠内で回っている。秩序は「常識」の集合体である。人は、互いが常識を有していることを前提にして初めてまっとうに交流できる。常識の無い人とは話にならない。信用できないから、物事も進展しない。

もしかしたら落語は常識的世界と非常識な世界を橋渡しするものかもしれない。なぜなら、ほとんどのネタが、非常識なモノゴトを「オチ」という常識的調和の中に引きずり込み、「笑い」という認識可能な方法に変換する作用を持っているからだ。つまり非常識は、落語を通じて常識的に理解されうるのである。

非常識を笑いの「燃料」とすると、笑いの点火プラグは皮肉を理解する知性であろう。個人と個人、個人と社会の間に横たわる非常識が、皮肉として知覚され、笑いに昇華される。笑芸において演者は基本的に常識的な立場に立ち、語りの中で非常識を紐解いていく。時にオーバーに、時に鋭く、時に哀しげに。本来笑芸とは、ネタそのものより、その技芸を楽しむものだと思う。

こういったロジックを落語に落とし込んだのが、五代立川談志のイリュージョンだと思う。古典落語を下敷きにすることで、どんなに過剰な逸脱であろうとも制御が可能だった。

だが、談志がイリュージョンを提唱するよりずっと以前に、聴衆を非常識の彼方に追いやるネタが存在していた。

それが今回紹介する「めけせけ」である。

 

けせけをこのコーナーに載せるべきか  。実は非常に迷った。この噺は古典落語ではないし、それ以前に落語じゃない。むろん、寄席で掛かったこともなければ、実演されたこともないだろう。

そもそもこのネタは、タモリがレコード「TAMORI2」の中で発表したものだ。日本語のハナモゲラ様式を古典落語の風合いに落とし込んだ、いかにも日本語らしき、いかにも落語らしき「思想模写」の一例示である。そういうわけだから当初は【番外編】として載せようかと思った。しかし「めけせけ」自体は最後のオチらしきところをのぞけば落語としての技芸  人物造形や所作仕草、語りの技術  を必要とするものであり、先に述べた笑芸の本来的な部分を十分要求するものだと思うから、連番に加えることにした。このネタの唯一の演者であるタモリに落語家としての熟練を認めて掲出するわけでないことは、前もって申し上げておく。あくまでネタの豊かさ、面白さである。

個人的にはタモリさんの芸は超がつくほどツボです。中洲産業大学や密室芸、一連のハナモゲラ語は、落語を愛好する前からハマってました。オペラ昭和任侠伝なんて最高ですよ。タモリさんは不世出の芸人です。

 

コードに収録された「めけせけ」は、タモリの得意な物真似や世界観の演出が功を奏し、あたかも本当の落語のように作られている。

出囃子は「野崎の送り」。華のある出囃子で聞き手の気持ちが盛り上がる。のっけの語り口は三遊亭圓生を彷彿とさせる。野崎を聴けば黒門町を思い浮かべてしまうだけに、なんだか妙な感じだ。軽くて滑らかな語り口は、本職顔負けである。ネタに入り登場人物の掛け合いになると、おかしみのにじみ出る柳家小さんの語り口に。たまに圓生に戻り、再び小さんにかえる。名人上手のいいところを抽出している。さすが物真似上手だ。音源にはお客さんの笑い声が入っているので、寄席にいるような雰囲気が見事に仕上がっている。動画共有サイトを探せばどっかにあるかもしれない。ぜひ聞いてみてほしい。

次にネタとしての「めけせけ」に触れてみよう。
簡単に言うとこんな話だ。

留公がご隠居に『めけせけ』とは何かと尋ねる。ご隠居は「『めけせけ』も知らんのか」と呆れる。
「それじゃお前、『はかめこ』は知ってるな」
「はい、それは知ってます」
「その『はかめこ』の上が『めけせけ』になるんだ。わかったか」
「へぇ……、はい」
やっぱりわからないので寺の和尚に聞きに行く。すると
「『せけめけ』は仏教でいう『へれまかし』のことだ」
それでも合点がいかないので今度は若旦那に尋ねると
「ちょうどおれも『せけめけ』について話したいところだった」
「で、『せけめて』って何ですか?」
「お前に『へけまか』と『せけめけ』が分かってたまるかい。じゃあ『もろ』なら分かるな?」
「ああ、『もろ』は分かります」
「じゃあ『もろ』に『せけめけ』ときたらどうなる?」
「ええと、『はかまか』ですね」
 そんなやりとりがしばらく続き、
「じゃあ『むかしね』の横には何がある?」
「え?」
「『むかしね』の横には何があるかってんだよ!」
 ここで地の口調になりサゲ。
『むかしね』の横には『うりしらべ』がございます。

だいたいこんな感じである。

ず理解しなくてはならないのは、二重括弧(『』)の単語は全て意味が無いということである。しいて言うなら、いかにも日本語的な音の並びであるという点  タモリは四か国語麻雀など疑似外国語ネタで人気を博したが、これはその逆の発想で、外国人が聴いたらいかにも日本語に聞こえるだろうという音の羅列を表現しているのである。

途中から『めけせけ』が『せけめけ』になるのは、なぜか分からない。レコードに吹き込むくらいだから間違いでは無いのだろう。留公のおっちょこちょい振りを表現しているのかもしれない。

噺の主眼は、留公が『めけせけ』の意味を追っていく過程で新しい言葉に出会い、ますます混乱していく様子の描写である。ご隠居・和尚・若旦那という落語界常連の顔ぶれと掛け合いは、まさに落語の空気であり、落語素人どころか、ちょっと聞き齧った人でも落語として聞いてしまうだろう。

 

の噺の特質すべき点は、オチのひと言だ。

『むかしね』の横には『うりしらべ』がございます。

非常識な世界を常識に変換し、笑いに変えるのがオチの役目である。どんなに不思議なネタも、オチを聞いて「ああ、そういうことか」「なーるほど」となり、聴衆は常識の世界に帰ってゆく。

ところがこのネタは、噺のきっかけである『めけせけ』は解決しない上に、『むかしね』という意味不明なものが『うりしらべ』というもう一つ不明な物の横にあるということを言って、いかにも満足気に噺を切り上げてしまう。聴衆は常識世界に帰してもらえず、非常識に置き去りにされる。しかも録音された観衆の拍手と歓声によって、自分だけ常識世界に帰ってこれなかったような感じがし、非常に孤独な気持ちにさせられてしまうのだ。

類似した噺に古典落語「転失気」がある。分からない言葉の意味を追いかけるという点が同じだ。こちらはオチで聴衆を常識世界に帰してくれる(超くだらないダジャレで噺が客と決別する)が、「めけせけ」は聴衆の帰還を落語の常識ごと拒絶する。まるでタモリの嘲りが聞こえてきそうである。

 

けせけ」は、常識の織りなす予定調和を遮断し、さらに、世に有り難がられる常識の根拠が実は衆愚にあることを間接的に暴露する、常に常識の対極に位置するネタである*1。 談志のイリュージョン落語にはこれは無かった。イリュージョンは常識の向こうに非常識があることを伝えながら、立地点はあくまで常識側だった。それはそれでいいのだ。そうでなくては落語でなくなってしまう。

それじゃやっぱり「めけせけ」は落語じゃないのかと言われたら  落語じゃないんだろう。無辺にカテゴライズされる落語蘊蓄の中の一つには加えてもよさそうだが、やはり落語ではない。私の中の一つの基準は「それ、寄席で掛けられるの?」である。「めけせけ」は客層を選びそうだし、後に上がりにくいだろうし、少なくとも笑いを保証できないから、厳しいのではなかろうか。

誰か勇気ある噺家さんがいらしたら、ぜひ演っていただきたいものである。

   *

今回はイヤに小難しくなりましたな。
たまには美味しいものを食べないと、脳が屁理屈ばかり言いたがりますな。
次回はもっと『ほふらわ』とした感じで書きたいと思います。
そういうわけで、次回も読んでくれるかな?
いいともー
お時間でございますm(_ _)m

無責任姉妹 1: 漆田琴香、煩悶ス。 (さくらノベルス)

無責任姉妹 1: 漆田琴香、煩悶ス。

*1:なんとなればタモリの芸風は、大衆そのものを題材にとって風刺的な傾向が強く、寄席芸のように前提としてお客様のご機嫌を伺うものでは無い。タモリはテレビ専門の芸人なのである。

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