アヲイ報◆愚痴とか落語とか小説とか。

創作に許しを求める私の瓦斯抜きブログ

無責任落語録(22)「五代立川談志」

責任姉妹3・4の無料期間終了しました(9/8~9/17)。ダウンロードされた方、ありがとうございます。今のところ何の反応もありません。「タダとはいえ貴重な時間をドブに捨てた」とか「なんかもう中身が無責任だ」とか思った方もいるかもしれません。怒りのあまり、★☆☆☆☆なんてしようとしている方、手を止めてください。一生懸命書きましたのでそれだけは許してください。

今回はKDPセレクトによる無料キャンペーンじゃなくて、プライスマッチを利用した無料頒布だったので、開始も終了もあまぞんさんにメールでお願いして、ご都合のよろしい時に価格設定をしてもらう方式を取った。その結果、一週間くらいやるつもりが十日ぐらいやったのかな。それぞれ200くらいダウンロードされた。無料ランキングでは最大瞬間風速26位を目撃した。一方プライスマッチの当て馬の方は、一冊も出なかったゾ。

もともと二つともリリースのタイミングが悪かった。売れない。見向きもされない。レコメンドもスッカラカン。なんとか刺激になればと今回の無料頒布をやって、たしかにレコメンドは多少埋まった。これで多少変わるかなと思って無料期間を終了したが  相変わらずですね。まあ、もう少し様子を見てみようとは思うけど、こんなのはほとんど初動で決まっちゃいますからね、初動で。


ダほど高いものは無いというが、物の価値というのは金の多寡に反映できるものなのか。こりゃまあ、ありきたりな話題で、「金=悪」みたいなのが結論になりがちだが、事実、金が集まるところに人の関心が集まっているのは確かである。世の中、もっとも当たり前に価値に目盛りを授けてくれるのが「金」であることは、間違いない。他に何かある? 水? 米? 美? 愛?

 

と金の関係について、記憶しているインタビューがある。2001年に古今亭志ん朝が亡くなった時の追悼インタビューで、五代立川談志が「金を払って聴く価値のある噺家志ん朝だけだ」と言った。私はこれを後年になって聞いたのだが、「家元、本気なの?」と思ったものだ。

立川談志は、1978年の六代三遊亭圓生落語協会脱会に際し、志ん朝の香盤を自分より下げるためにいろいろ画策した  と言われている。家元は芸を見る目は確かである。志ん朝の芸が自分より上だと思うなら、香盤のことをどうこう言うとは思えない。この頃、家元は間違いなく「志ん朝の芸は自分より下」と思っていたのだと思う。

ところがその態度がひっくり返る。

1983年、独立して立川流を立ち上げる。これまでは落語協会という一つのくくりの中で、自分が上、志ん朝が下と言っていれば良かった。だがこれからは立川流の家元として、同じような物言いをしていたんでは、相手と同格になってしまう。そこであの発言である。つまり「志ん朝という奴は俺が認めるんだからすごい奴なんだぞ」と、相手を上げることで自分を持ち上げている  ように聞こえる。そしてさりげなく「志ん朝の芸は金で測れる」という何だかイヤァなニュアンスも含んでいるようにも思われる。

志ん朝に対しては積年の思いもあっただろう。入門は家元が先、だが真打昇進は志ん朝が先。家元は回顧的インタビューで、自分の師匠柳家小さんが、顔付けで強く出られないと愚痴っていたが、落語界におけるパワーバランス的にも、家元は弱い立場だったようだ。志ん朝志ん生の弟子であり息子である。


川談志は、従来の落語の物差しでは測れない活躍をした。これは間違いない。落語の明著「現代落語論」の上梓、笑点をはじめテレビ・ラジオでの活躍、参議院議員沖縄開発庁長官、立川流の設立等々、枚挙にいとまがない。関東ローカルだった伝統芸・落語は戦後のラジオで全国区になったが、それをリアルタイムな芸能に格上げしたのが立川談志である。そういう意味での功績は歴史上の大名人の誰よりも大きい

落語家としての家元は、イリュージョンという境地を拓いて他の噺家と比較のしようがなくなった。家元の口演する古典落語は彼の境地を理解するための下敷きに過ぎない。「やかん」「芝浜」「粗忽長屋」「落語チャンチャカチャン」……観客にそれなりの落語知識を要求し、なおかつ談志的な解釈の理解を迫る高座は、コアなファンにはたまらなかった。そんなだから独演会は「談志教」のミサであり、客は信者であった。とりわけインテリに受けたのは、談志落語の哲学性だ。「落語は人間の非常識の肯定」という不安定な人間性への視座はWW2前後の欧州文学を読み耽った層には魅力的に映ったことだろう。

っともこういうのは後年のことだ。談志の落語は70年代が全盛のように思われる。源平盛衰記、野晒しといった、やや調子がかった「語り系」の噺は素晴らしい。けれども当時は圓生文楽正蔵といった写実落語が全盛の頃。ライバル志ん朝もその系統で、談志は同じ路線で戦うには不利だった。個性が強すぎて、写実落語を演っても自分自身で障ってしまうのである。イリュージョンは、写実落語と一線を画すために生まれた  というのが私の意見だ。だとすると、「他のやつらと一緒にするな」「やつらは咄家、俺は落語家」というセリフと辻褄が合う気がする。

 

間では「談志と言ったら芝浜」というおもむきがあるが、実際は、ちょっと聞きかじった人でも「それはない」と言うだろう。これは立川流のお弟子さんたちもラジオで言っていた。

私が家元の落語で好きなのを挙げると……

一文惜しみ
鼠穴
子猿七之助
鉄拐
笑い茸

あんまり演る人がいない噺が多い。どれもメリハリや啖呵といった語り口が求められるネタ。職人さんを演るとすごく合う。声のせいかも。

持ちネタは相当多いけれども古典落語をそのまますることはなく、シュールや哲学が混じることが多い。そういうネタは話芸というより談志哲学・談志教義として聞くと非常に面白い。

やかん
粗忽長屋
松曳き


はどんな時に金を出すのだろう。どんな時に金を出してよかったと思うのだろう。
個々の期待値と、それを上回る裏切り。そこに「あッ!」と驚きがあって、喝采が額面になる。ということは、裏切られたと思えるだけの前情報が事前に開示されてないといけない。

立川談志の落語は、立川流という紆余曲折の歴史と、家元談志の強い個性がものすごい前情報となって、いつも過激な期待をされてきた。その期待を叶えたり裏切ったりするのは難しかったことだろう。席を抜いても、観客と裁判になっても、鮫と闘いに行っても、がん会見で煙草を吸っても、ファンにはまだ想定内だった。過激な芸人人生、最期に望む死因は「ふとした病」とジョークめかして言っていたのも、もしかしたら「せめて最後ぐらい安らかに眠りたい」と思っていたのかもしれない。

とはいえ、死後、NHKに「うんこくさい」と言わせようとするなんざ、やはり天才芸人。こればかりは「金を払っても」なかなか演れない芸当だ。

 

 今回は以上です。秋です。寝冷えにご注意ください。

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無責任落語録(21)「搗屋幸兵衛」

9月10日現在、アマゾンキンドルにて無責任姉妹3と4の無料キャンペーンをやっています。厳密にはプライスマッチだけど。

無料ということは、タダということです。

ぜひDLしてください。もうね、読んでもらった方がね(どうせ売れないからね)、浮かばれますよ。

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さて…

 

突だが、文芸は哲学無しに成り立たない。哲学と言えば、なんちゅうか「」である。終わりがあるという事実が、生をより深く考えさせる気がする。人を描こうとする創作に、死の洞察は不可欠だ  なァんて言うと小生意気だが、まあ文芸に携らなくても人は死ぬし、死んでいく人を見送るのも人生であるからして、誰でも死についてはいろいろ思うわけである。

は、社会によって、時代によって、捉えられ方が様々だ。

私は80年代以前のアメリカンプロレスが大好きで、スーパースターの逸話などを好んで読んだりする。そんな中で昔とあるエピソードを読んでショックを受けたことがある。

日本で力道山が一大旋風を巻き起こしていた頃、アメリカではバディ・ロジャースというレスラーが天井知らずの大人気だった。キザでナルシストだがめちゃくちゃ強い。ダーティーチャンプの家元みたいな人で、元祖ネイチャーボーイである(リック・フレアーは彼の後継者だ)。力道山はこのドル箱レスラー・ロジャースをなんとか日本に呼びたかったようだが、あまりに人気があり過ぎて時間が取れず、結局来日することはなかった。

バディ・ロジャースは71歳で没した。その死因が哀しすぎる。スーパーマーケットで落ちていたクリームチーズに足を滑らせ頭を打って亡くなったのである。華やかの限りを尽くした人生が、どうしてこうもまあトムとジェリーのような最期なのか、無情を感じる。それよりも、このように死に方を公表するのはアメリカでは普通のことなのだろうか。死因は単に「事故死」とだけにして、スーパーだのクリームチーズだの、具体的なことは言わなくても良さそうなものを。そうでなければ、死に方によっては故人の名誉にかかわる気がする。私だったら黙っていて欲しいし、私の身内がそんな死に方をしたとしても、言わないだろうなぁ。アメリカというところは、きっと死についての考え方がドライというか、淡白なんだろう  なんて思ったものだ。戦争ばかりやってる国は、そうなるのかね……?

 

常と死の距離感は、世相に拠る。先の震災で多くの日本人が死について考えさせられた。戦中戦後は生きて帰ることが不名誉とされた頃もあった。どういう時代が良いとか悪いとかではないけれど、時代ごとの死生観を比較するのは文明文化の変遷を知る上でよい学びになると思う。

いにしえの日本を知る手立てとして古典落語を紐解くと、死を扱ったネタをいくつも見つけることができる。一般に古典落語とは御伽衆の時代から明治末までに出来たネタを指すが、そこで扱われる死は、やはり現代とは考え方・感じ方が大分違うんだなと思う部分もあるし、一方で変わらない部分もある。

う部分は、死と日常の近さだ。昔は医療が発達してなかったろうし、疫病や飢饉、天災に見舞われたらひとたまりもなかったろう。きっと日常のすぐそこいらに死がごろごろ転がっていたに違いない。死の登場する落語を一部紹介すると、「粗忽長屋」では行倒れを担いで持ち去ろうとするし、「黄金餅」では焼き上がった死体の腹をほじくって金を手に入れる。「らくだ」では屑屋と熊五郎が死体にカンカン踊りをさせたり髪をむしったりするし、「算段の平兵衛」では人々が死体をたらい回しにする。「ふたなり」や「夢八」なんてのもある。どの話も死体の扱いが随分ぞんざいだ。

むろん、こんなのはぜんぶ作り噺なので、何がどう語られようと大真面目に論じられるべくもない。けれどもじゃあ実際にこういう噺を創作してみろと言われても、死についてだいぶ柔軟というか、身近というか、あっさりとした感覚を持っていなければ、思い浮かばないような気がする。むろん現代の映画やドラマでも死はしばしば表現されているが、死体をどうこうしようという筋立ては、あんまり無い。日頃死体に触れる・接する機会が無いからかもしれない。

 

わらない部分はというと、先のバディ・ロジャースじゃないが、そのあっけなさである。死は誰にも及ぶもの。だが死に方は千差万別。「人ってこんなことでも死んじゃうんだ」そんな儚さが心をヒンヤリさせる。

なかでも搗屋幸兵衛はそれを如実に教えてくれる噺で、狂おしいほど「あちゃあ~」感のあるリアリティを醸す。

搗屋幸兵衛は、端折って云うとこんな噺である。

 長屋の家主・幸兵衛の家に搗米屋がやってきて、空き家を貸してほしいという。幸兵衛は搗米屋と聞いて昔話をする。

 昔、荒物屋をやっている時に人に勧められて、とある姉妹の姉と結婚した。しかしまもなく姉は病に罹り、「のち添えには妹をもらってくれ」と言い残して果てた。幸兵衛は言われたとおりに妹と結婚。ちょうどこの頃、裏に搗米屋が引っ越してきた。

 さて妹は姉以上に器量が良く、家事も万端してくれるので満足していたら、ある時を境に妹は調子が悪くなり枕が上がらなくなった。わけを訊くと「姉さんが妬いている」という。毎日お昼に仏壇を開けて姉の位牌にお供えをし仏壇を閉めるのだが、翌朝開けると位牌がこちらに背を向けているという。あれは姉さんが私を嫌っているからだ。そんな馬鹿な。幸兵衛が確かめると果たして事実であった。不思議だなあと思っているうちに妹はそのことで気を病んで、ついにはこと切れた。

 やれ哀し哉。二人も嫁に先立たれるとは。幸兵衛は妹の位牌を姉の位牌の隣に置いた。昼お供えをして翌朝開ける。すると位牌が二つともこちらに背中を向けている。元に戻して翌朝見ると、やはり反対を向いている。うぬ妹妻の奴、こないだまで同じことで悩んでいたのに、いざ自分が死んだら姉貴と同じことをして俺を困らせるのか…と思っていたが、
「いや、これはきっと近辺の狐狸の仕業に違いない」
 幸兵衛は決意し、仏壇を開けて六尺棒を抱え、寝ずの番をする。夜が来ても、丑三つ時になっても何も起こらない。夜がしらしら明けてくる。隣で搗米屋が起き出して、謡いながら米を搗きだす。

 ドン、ドン……。

 米を搗く振動で、仏壇の中の位牌がズッ…ズッ…と回っていく。ちょうど昼過ぎになると二つの位牌は半回転してこちらに背中を向けた。

 ……はぁ、これが事の真相か。

 幸兵衛は家を借りに来た搗米屋に言葉を浴びせる。
「先の女房は病で死んだが二番目は搗米屋に殺されたも同然!」
「や、その搗米屋と私は違います」
「なんの、同じ商売だッ! 女房の仇ッ!」

「搗屋幸兵衛でございます  
志ん生はあっさり言って切り上げる。通常なら「~という馬鹿馬鹿しいオハナシ~」などと付けそうなものだが。照れるように小首を傾げてお辞儀をする絵が浮かぶようである。

兵衛の登場する「メンドくさい家主」シリーズは「搗屋幸兵衛」以外にもいくつかある。八代文楽の得意とした「小言幸兵衛」、三代金馬の「狂歌家主」「小言念仏」、類似した話に益田太郎冠者作の「かんしゃく」もある。幸兵衛は落語の世界では立役者で、「三十石」では小言幸兵衛長屋中という名乗りさえある。数ある長屋話の中で、幸兵衛はその代表格といえよう。

ところが「搗屋幸兵衛」はなぜかあんまり演じる人がいないようだ。動画共有サイトで見る限り志ん生志ん朝親子が演るばかりで、あとは見えない。まあ噺の構成は正直よくないし、演った割に受けも薄いのかもしれない。これ、逃げ噺に入るのかな?

 

れにしてもこれほど馬鹿馬鹿しい話はあるだろうか。私は数ある落語ネタでキングオブ滑稽譚は間違いなく「搗屋幸兵衛」だと思う。位牌の謎に、幸兵衛も最初のうちは「姉の悋気だ」「妹の妄念だ」「狐狸妖怪の悪戯だ」と、オカルトじみた思いで六尺棒を汗で湿らせる。だが、実際は  人が死ぬ理由なんていくらでもある。想像と現実のギャップに可笑しさがこみ上げる。

振動でモノが動く。これはまあ「ありがち」「思いつきやすい」「ベタ」なトリックと言えよう。隣の搗米屋の振動で位牌がちょびちょび動くのは想像に足る。けれども普通はどう考えても、一つの方向にツツツと進んだり、倒れたり、そんなもんだ。だがこの幸兵衛噺では、位牌が芯を軸に回転する。きっと仏壇の位牌を置くところの板が水平じゃないか、反っているか、ささくれが出ているかして、動くのを制限しているのだろう。それも二つも。私はこの点に妙にリアルを感じる。これは実際に何かが振動で回るのを見た人じゃないと思いつかない話だと思う。昔、テレビのビックリ映像で同じようなのを見た  立体駐車場でサイドブレーキを引かずに停められた車が何かの拍子で勝手に進むのだが、ハンドルが切られたままだったので、くるっと一回転して同じところに戻って停まるという奇跡映像だ。幸兵衛の仏壇の中にも似たような奇跡が起こったのである。滑稽な中にあるこの精緻なリアルさが、搗屋幸兵衛という噺の背骨を保たせているような気がする。

 

違いで死ぬってのは、実際にあるらしい。何かの実験報告をどっかで読んだ。被験者に目隠しをして、足かどっかに冷たい水をポタポタ垂らして、「あなた血が出てます。すごい量です。あと〇分出たら死にます」と言ったら、ちゃあんと〇分後に死んだという。

位牌の動きを気にして死んだ妹は、姉の悋気に苦しめられたという思いはあるわけだ。てことは、搗米屋に殺されたというより、姉に殺された  いや、心のどこかに潜んでいた姉への思いが発露して  。そう考えたら、死ぬ方にも問題があったように思われる。姉の跡目に嫁になることに、やはりどっか後ろめたさがあって、そこにひっかかったんだろう。受け入れちゃいけないな、こういう結婚話は。

この妹さん、素直な人だったには違いない。
でもまあ、死ぬべくして死んだのだろう。
同情はするけど  こんな死に方はしたくないね

   *

以上、お粗末様です。
あ、最初にも言いましたけど、無責任姉妹3・4無料です。取ってって

はたらくということ。

何様

 人間はおぎゃあと生まれてすぐはまるで何もできず、親の助けがなくては死んでしまう。その後は学校に通ったりしてひと通り成長するが、いざ社会に出るとなると、これまたどうしようもない。むろん、学生のうちにスポーツや芸術関係で頭角をあらわしていたり、資格をとったりして、社会に出るための布石を置いていた人は別である。ほとんどのやつは、会社に就職する。公務員のことは、まあおいとこう。一般の企業に入ったケースで言いたい。
 若い人に「どうして働くの」と訊くと、「食べるため」という答えが返ってくる。若造が吐くと生意気で寸足らずだ。でもまあこんなのはいくらか理のある方で、中には「夢のため」とか「家族を養うため」とか。「え? 働くでしょ、普通」なんてのも。しあわせだな。
 食べるためという答えは、まちがっちゃいないだろう。でも、食べるための方法は、何も他人様の会社で働くに限ったことじゃない。猟でも拾い物でも乞食でも何でもして、自分で糧を得ればいい。でもこれにゃ知恵が要る。腕もいる。哀しいかな社会に出てすぐの人間は、ほとんどの場合自分で金を稼ぐ術をもってない。悪をはたらく胆力も知恵も器用さもない。オレオレ詐欺なんて考えたやつは、なかなかひとかどだよ。いかんこったけど。
 まあ、普通は他人様の会社に入って、その会社が打ち立てたノウハウに加担し、皆で売り上げをあげて、分け前としてお給金をもらうことになる。むろん雇う側もノウハウの維持と運営、拡大のために人が要るので手下を募集する。優秀で言うことを聞くやつがいい。俺ならそうする。どんなに人格的にいいやつでも能がなければ糞製造機だし、おもしろくても仕事ができなければ穀潰しだ。
 さて、てめえで食う術を持たない連中が、入社してしばらくすると増長して「やれ労働者は不当に搾取されている」だのなんだのと抜かすのは、聞いていて呆れ返る。食う術を与えてもらってるのに文句を言えた義理か。文句があるなら辞めてしまえと思う。
 どうしてこういう風潮になったのだろう。昨今の労使間のニュースなどを耳にすると虫唾がはしる。労働者の権利を喧伝する声は、まるで「雇用は労働者のためのもの」とでも言っているようだ。そんなことがあるもんか。雇用は市場の需要に応えるための企業努力の一つだ。必要とされる奴のみが必要とされるのである。必要とされない奴は諦めるか、必要とされる場所を探すか、さもなくば必要とされるように自らを変革すればいい。言っとくが、必要とされてる奴はその努力をしているんだぞ。御託屋は努力する前に足踏みをする。努力の覚悟があるかどうかで、もう勝負はついている。弱者? そんなのいない。そいつらは敗者だ。
 もうひとつまずいのは、労働者自体があまりにも物を考えないことである。耳障りのいい言葉にのせられ、そうか俺は守られるべき労働者なのだと、投票所ではあんまり賢くない党派の名前を書く。ノセる側も労働者の堕落を見切っているから、いろんなことをいう。だます奴らとなまける奴らが手を取りあって、いったい何ができるっていうんだ?

 今は親も教育もとっちらかっているから、口だけ達者で付け焼刃の知識ばかり振りかざす奴が巷に溢れている。いやんなるね。でも悟り世代はいいよ。この世代は寡黙だ。ダメなりに黙っててくれるのは、ヘンなガスが増えないからいいよ。

 

盗人野郎

 自分自身で金を稼ぐ術の無い人間が、食っていくために他人様の会社のノウハウにおすがりして数年も勤めると、莫迦でもやり方を覚えてくる。食うためのノウハウが身についてくるのだ。ここで「やれシメた!独り立ち」と、会社に退職願を叩きつけトンヅラをこくのは、立派な産業泥棒、下衆の所業である。
 考えても見よ。会社が自分で食う術もない人間を面接し、いくらかふるいにかけて「見込みあり」と採用し、投資同然の社員教育を施する。やれそろそろ一人前になったかと思ったら、忘恩にもケツをまくる……自分が雇う側だったら裏切者だと思うだろう。
 だが、状況というのはいろいろだ。会社というのは生もので、駄目になることもある。世間の動きについていけずにへこんだり、中から腐ってへたったり。その結果、会社が持っていた素晴らしきノウハウが消失してしまうのは残念なことだ。社会的な損失であり、文明文化の損失である。
 会社の価値はノウハウである。内にあっては食うためのノウハウ、市場にあっては社会に役立つノウハウ。良き企業の良きノウハウはこれを両方いっぺんに成し遂げるんだからすごい。そんな立派なノウハウが、生みの親である会社そのものによって朽ちて失われんとするなら、それは阻止せねばなるまい。そういう大義においてのみ、独立は許される。別の会社を立ち上げてノウハウを移植するとか、あるいは正当な手続きを踏んでノウハウの禅譲をうけるとか、多少敵をつくってもやる必要がある(円満な暖簾分けなら問題ないが)。
 一方で、ウチの会社はもう駄目だと分かっているのに手をこまねいて、戦国時代ばりに主君と討ち死になんてのは、これは愚の骨頂である。会社の倒産とともに人生を破滅する……実は案外多い。死んで会社の鬼になるだの、社長に拾われただの、誰それに恩があるだの、まるっきり美学、浪花節の世界である。沈む船からは鼠も逃げ出すってのに。そのくせ後になって保証だ未払い賃金だと声を上げる。てめえの目先が悪いからそんな目に遭うんだということは、どっか頭の中で感じておきたい。

 それにしても我が国の美学ってのは、ホント分からん。勧進帳忠臣蔵・西郷礼賛  。桜は散るから好いってやがる。なぜそうややこしい言い回しをしたがる。その前に咲かなきゃしょうがないよ。「咲くから好いね」でいいじゃないか。やっぱり散るのは見てて寂しい。

 

愛社精神

 愛社精神というのは危険思想で、社内でこれが連呼されるようになったら癌は全身に転移しているから、もうどこを切っても無駄である。立派な会社はそんなことを言わなくても社員同士に自然と紐帯が結ばれる。
 入ってすぐの社員に愛社精神をどうこう言うのはハラスメントである。逆に入ったばかりのくせに「ぼくには愛社精神があります」などと抜かすのは淫売の手口だ。もっとも本当に心酔しているケースもあるが、そんなのは勘違いであり、イワシの頭であり便所の扉である。可愛がっても変質者にしかならない。さっさとクビにした方がのちのためだ。我が国の国民性はたまにこういうことがある。その気になれば敵の戦艦に飛行機で突っ込む。
 我々がしばしば想像するような愛国心  国旗国歌はもとより、言語や血や国土や信仰にまでオールラブな心というのは、厳密には存在しないと思う。というのは、愛とは広範に網羅する感情では無いからだ。愛はロジックではなく、自我で贔屓で局所的なもの。愛社精神も同様だ。一緒に働く同僚、お世話になった上司、可愛い部下、こういった人たちとの日々の個々の交感が、時の経過とともに不可欠で大切な物に思われるようになる。これらひとつひとつが集まってイワシの大群のように一個の巨大な気持ちになったように思えるのが愛社精神なのだとおもう。オールラブなんてのじゃない。「あなたアタシのどこが好き?」「ぜーんぶ」「やーあー<(//v//)/」こんなのに限って後で箸の上げ下ろしまでムカつくようになる。そして別れる。「ここは好いけどここは嫌い」くらいがちょうどいい。「ここは嫌い」という発想はむしろ問題形成能力が働いているわけで、将来的な関係としてはいい傾向じゃないかと思う。

 もっとも一部の経営者は偶像崇拝じみた尊崇を要求してくる場合もある。経営者だって労働者同様である。必ずしもマトモとは限らないことを肝に銘じよ。

 

社員を辞めさせる術

 最近はあまり聞かないが、一時期は一家の大黒柱が「誰のおかげで食べれていると思ってるんだ!」とちゃぶ台をひっくりかえすシーンが、一つの定型であった。共働きの時代がきて減ったかもしれないけど、男の脳みそには本能的に支配欲求があるので、状況が適合するならいかなる場合でもこれを言いたくてしょうがないだろう。
 だがこれは裏を返せば非常に残酷な現実を突きつける。家族は男にこう言ってやれ。「誰のおかげで働く理由を与えてもらっているのだ」「誰のおかげで『やること』があると思っているんだ!」……。定年してすぐ死ぬおっさんの多いこと。人生、やることがないのは苦しい。誰にも求められず、つながりもなく、存在する意味もなく、ただ日々を無為に送る。労働には、食うために働くという大義名分があるものの、それだけじゃどこか虚しい。
 刹那刹那の欲望に身を任せていては人間は身が持たない。だから宗教は、即物的なパンじゃなく、主とか永遠の生命とか尊厳とか、腹の膨れない何か崇高な物を大事にせよとした。そうじゃないと人間が自分自身を持て余すと気付いていたのだろうね。
 人をダメにするには、お前なんか必要ないということを徹底して伝えることだ。会社を辞めさせようとして嫌がらせなんかすると、案外居続けるものだ。なるほど、鞭より無視が効果的である。
 まあ、仮に辞めたとしても、こんどは嫌がらせをしてた奴がやることがなくて持て余しちまうがね。

(とりあえずおしまい)

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