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アヲイ報◆愚痴とか落語とか小説とか。

創作に許しを求める私の瓦斯抜きブログ

無責任落語録(3)「寝床」

たり前のことだが、生きていれば毎日いろんなことがある。
毎日おんなじことの繰り返しでウンザリだ」なんて声をよく聞くが、実際のところ、ウンザリ気質の人間はどんな生き方をしてもウンザリするようにできている。
私は去年まで広告というかイベント系というか、そんなところで働いていた。この手の職場は「おんなじこと」はあんまり繰り返されない。けれどもしばしばこんなことをボヤいては、後輩から咎められたものだ。

「アア、毎日違うことの繰り返しでウンザリだ」

すると後輩

「私は毎日おんなじボヤキを聞いてウンザリだ」

その会社はもう辞めてしまったので、そのあと後輩をどう始末したか、もう覚えていない。

れはともかく、今回私がやってみたいのは、その「おんなじこと」を様々な角度から見た時に、どのような違いが起こるのか、その実証を落語に求めつつ、小説を書くにあたり活きるヒントを見いだそうという試みである。

  そこに「落語」をもってくるところが強引ですかね?

ところが案外そうでもない。
古典落語は昔から連綿と語り継がれている。有名な演題であれば、聴衆はすでに噺の内容を知っていて、その上で聴く。噺家は時代を超えて何十辺も何百辺も「おんなじこと」を演っており、聴衆も同様なのである。
しかし、一つだけ「おんなじ」じゃない大きな違いがある。
それは噺家によるアレンジの違いだ。
噺家はそのネタを演るにあたり、どこを強調するか、何を面白く聞かせるか、練って高座にかける。これにより、同じネタでも噺家によって違う風景を見せるようになる。

回はそんなネタの中でも特にバリエーションと演り手の多い「寝床」を検証してみよう。

この噺くらい多くの噺家に語られて、いじりたおされている噺もない。それでいて根幹の部分はまったく揺らいでいないのだ。実証のサンプルにはもってこいなのである。

「寝床」を時系列順に解説するとこんな噺だ。

  1. まくら
  2. 旦那が義太夫の催しをすると言い出し、屋敷で準備がはじまる。使用人の一人が旦那の持家である長屋の住人に、催しの案内に行く。
  3. 使用人が帰ってきて、旦那に誰がくるのか伝える→誰も来ない。みんな嫌がって嘘の用を言っている。
  4. ヘソを曲げた旦那。「もうやらない!みんなクビだ!長屋の連中も出ていけ!」
  5. 旦那の怒りを鎮めるために、店の賢い人が動き出す。外を回って長屋中の人を集める。旦那は説得されて機嫌を回復し、催しをやることになる。
  6. 長屋の連中がぶつぶつ言う。そのうち御簾内で義太夫がはじまる。
  7. 旦那は熱演。御簾を開けると、みな酔って寝ている。怒る旦那。一人だけ泣いている幼い定吉。

サゲはこんなだ。

「サダ。どこだ? どこのところが悲しかった?」
「あそこだい、あそこだい」
「あそこって、あれはさっきまで私が語っていた床じゃないか」
「あそこはおいらの寝床だい」

代にも通用する部分がある。サラリーマンの悲哀だ。嫌な上司に誘われたりしたら、誰だって断りたいでしょう。最近は若い人が上司と飲みに付き合わないとか「残業代出るんですか」とか平気で言っちゃう時代だから、また違うのかもしれないけど。

それにしてもこのネタ、寄席でもよくかかる有名なネタなのだが、どうもサゲがぬるい感じがする。「どこだ?」の「どこ」と「寝床」の「どこ」が掛かっている程度……それでいいのか?

そんな風に中途半端な部分さえあると思われるネタだが、名人と呼ばれる噺家たちは揃ってこの噺を持ちネタとしている。中でも有名どころは八代目桂文楽・五代目古今亭志ん生・三代目三遊亭金馬・六代目三遊亭圓生の四人である。この四人、驚くほど違う「寝床」をやりおおせる。

そんじゃ、一人ずつ見ていこう。

 

八代目桂文楽|完全基本パターン

前述のナンバリングしたプロットを順番通りに演じる。
聴きどころは(5)。怒った旦那を軟化させるシーン。説得に来た人間にへそを曲げて言い返すところだ。

「私は演らないといったら演りませんよ。そらそうでしょ、こういうのは演る方が演る、聞く方が聞くとなって初めてできるもんで……いや、だけどさ、エ?……うん、そりゃお前さんの言うのはわかるよ、でも……うん、いや、だけど……うん……」

二人で掛け合いになるところを旦那側だけ演じ、表情が徐々に柔らいでいく旦那を表現している。と同時に旦那の相手の雰囲気も伝わってくる。
敢えて描かないことで見せるというこの手法は、聞き手に想像を促し、鮮明な臨場感をもたらす。小説で言うところの「行間を読ませる」ことであり、ひいては「読み応え」となる。

 

五代目古今亭志ん生|シュールに持ち込み笑いに特化

古い記録を紐解いても、毎回(6)の長屋連中がブツブツ言うところで切り上げてその先は演っていない。サゲが面白くないから最後までらなかったのか。あるいは、これは私見だが、義太夫を下手なりに一生懸命やっている旦那を馬鹿にするこの噺を、苦節の長かった芸人としては好きじゃなかったとか。

  だったら最初っからやらないよな。

立川談志志ん生をイリュージョン落語の草分に位置付けているように、この話も独特のシュールがある。極めつけはサゲだ。

「へえ、番頭さん一人で旦那の義太夫を聴いて?」
「それでたまらなくなって座敷から逃げ出した。すると旦那は後から義太夫を唸って追いかけてくる。番頭さんは蔵に逃げ込んだ。けれども旦那が外から梯子を掛け、二階の窓から義太夫を語りこんだからたまらない。蔵の中で義太夫が渦を巻いて、番頭さん七転八倒の苦しみ。その後番頭さんはお店を辞めて、今はドイツにいる」

元筋は初代柳家三語楼か……?
このやり方は、聴衆が元の「寝床」を知っている前提でなければ大筋不明だ。だが、個々のくすぐりを吟味するだけなら、その場その場で笑うことはできる。筋より笑いを取ったといえる。

 

三代目三遊亭金馬|金馬ワールド・己の個性で染め上げる

筋の運びは桂文楽よりベーシックだ。だが、金馬のアクの強さが前面に出まくって、ストーリー以上に可笑しさがこみあげる。
三遊亭金馬という噺家は、戦後大人気だったにもかかわらず、ご通家からは「八人芸」と言われて評価が低かった。落語における「八人芸」とは、キャラクターを演じ分けるにあたり、声色を変えることである。基本、落語の演じ分けはセリフと口調だけであり、女性や子供を演じるからといって高い声を出したりするのを下手とする。
「それでも売れればいいじゃない/面白ければいいじゃない」というのは確かだ。
でも演芸論上で金馬を分解すると、一つの局面につきあたる。
アクの強い金馬が子供を演じると「寝床」のサダも「藪入り」の倅も「子別れ」の金坊も「真田小僧」の子供も、みんな同じになるのだ。
そんなだから、ひとつのネタを基準に噺家を比較しようとすると、幅が狭いように思われてしまう。こうなると演芸論的には損で、つまり金馬の「寝床」は「寝床」じゃなく、寝床を演る「金馬」を聞いているのだという解釈になる。

小説におけるキャラの書き分けにも同様のことが言える。
例えば最近のライトノベルにおける個性は、設定によるところが大きい。異能でもメイドでもツンデレでも草食でも構わないのだが、性格の色分けをせねば。特に長編作品では人物の内面(表出は喋り方や考え方)にたいした差異がないままだと、あとあとキャラが他のキャラと似通ったりしてダレてくる。

 

六代目三遊亭圓生|大胆なプロット変更で迫力の展開

圓生師匠はどちらかというと今の落語のお手本を定めた噺家のような気もするが、このプロット展開だけは大胆だ。まくらのあと、噺を(5)からはじめ、そのシーンで回想として(2)~(4)を説明し、(6)以降を展開させる。たしかに(2)~(4)は事実に則して語るより、(6)のブツブツいうくだりで人から聞いた話として述べる方が、重い感じがするだろう。「噂になるほどの話なのだ」という価値が付加される。さらにその絶望的な状態を述べたのち、旦那の義太夫をオーバーに説明する。すると旦那の義太夫のすさまじさが倍加して聞こえる。

旦那は見台にしがみついてウンウン呻り、義太夫はますます勢いがついていく。
そのうちに、三味線は東海道義太夫中山道、このまま行けば大津の辺りで出っくわすだろうてんで、まるでかたき討ち。

地図まで引っ張り出して惨劇の規模を感じさせる面白さ。大胆なプロット変更とクスグリのスケールで、ストーリーは立体的かつ迫力のあるものになっている。

 

、四名人の寝床を比較してみた。
同じ噺でもこれだけ違いがある。おそらく四人とも自分の個性や美学で「寝床」を吟味し、受けるネタになるまで磨きをかけたのだろう。どこで説明し、どこで笑わせ、どこを重点的に聞かせるのか、あるいはどこを聞き流してもいい場所にするか(客が疲れないように)まで、検討しているに違いない。プロットを徹底的に分析し、自分の中に沁み込ませていなければできないことだ。

小説を書くにあたっても、プロットを単なるロジックとして扱うだけじゃなく、読み手をいかにコントロールするかまで考えて掛かりたいものである。

 

以上です。
ますますマニアックでますます孤立…これもいつもとおんなじ、だね!
今回もながながありがとう。

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