アヲイ報◆愚痴とか落語とか小説とか。

創作に許しを求める私の瓦斯抜きブログ

投稿中年、ボヤく。

しく小説を文学賞に投稿しようと思っている。ほとんど気まぐれと言ってもいいのだが、その気まぐれは今年の正月あたりからくすぶっていた。どこの賞に、というのはとりたてて決めず、文学賞によくある傾向に則り、とにかく何か書いてみよう、と。

作品自体は5月くらいに仕上がった。その後は雑事にかまけて放ったらかし。ふた月に一度くらいファイルを開いて「チョイ直し」を試みたりした。そのたんび自分の原稿のボロボロ具合に愕然とし、たちどころにファイルを閉じるか、自己嫌悪が希釈されるまで手直しに興じてみたりした。

11月を過ぎたあたりで、「この賞がいいかな」とあたりをつけ、さらに直したり壊したり。12月となり募集期間がはじまり、昨日は百何枚かプリンタで刷り出した、というところ。こういうことをするのは十数年ぶりで、なにかこう、ムズムズする。尻が痒くなる。

あとはポストに咥えさすだけだ。だが、正直なところ、どんだけ推敲しても「これ!」という風にならずに悶えている。文章のはしばしどころじゃない。物語全体にしても「これおもろいか?」と疑念がわく。自分の作品に自信がわかないのである。我が子を愛せないのである。ううむ。それでも締め切りはくる。

グリーンボーイ・アッパータイム

グリーンボーイ・アッパータイム

間だから夢は見る。「賞をとったら賞金で云々」「もらった金で云々」「頂戴した報奨金で云々」全部カネだ。まあいいじゃないか。ところが、一旦現実に帰って、その投稿先のサイトなりなんなりをみると、「はぁ」とため息が出る。「この審査員の本を面白いと思ったことはないなあ」「この審査員の文章のリズム、あわないんだよなあ」。くわえて、どこの賞でもそうなんだが、一等賞になった小説を読んで「これいいなあ」「すばらしいなあ」と思ったことは、ない。こんな陣容の文学賞に、仮に「自分で愛せない自分の小説」が選ばれても、何が何だか分からないことだろう。

「じゃあなんでそんなところに出すんだよ」と言われたら身も蓋もない。
枚数とかの関係でして。

もしかしたら、私が文学音痴  文痴なのかもしれない。いや、かなりの確率でそうに決まってる。人が面白いと思うのはたいがい面白いと思わないし、なにごともひとりで面白がってばかりいる。えてして共感というものがない。それはぜんぶ感性が音痴だからだ。やはり文学賞の先生たちは偉大で、選ばれる賞は珠玉の作品なのであり、それが分からない私に問題があるのである。だって、そうじゃないと、文学賞の権威ってものがそもそも成立しないでしょう。みんなが投稿するってことは、それがすでに巷に確立しているものと、私は信じているのである。

 

こ数日、漫才コンテストの件で若い人が偉い人に何か言ったとか言わなかったとかで、ボヤ騒ぎが起こっている。そんなネット記事の関連記事で、ビートたけし明石家さんまといった有名な人たちが、「お笑いに点数を付けるなんてどうかと思う」と苦言を呈している。むろん件のコンテストは、売り出すためのコンテストであって、純粋な評価機関ではない。そうは分かっていても、やっぱりこう、一等賞がきまるとなると、世の中いろいろと動いてしまうもんだ。

文学賞もそうだと思う。80点の老人にやるより、70点の若者にやった方が、のびしろがあり、出版社を潤し続ける可能性は大だ。思惑、というものはどんな世界にもあるのである。いずれにしても、やはり、たけしさんまの言及通り、芸事に数量的な評価をくだすのは、そもそもどうかと思う。

どうかと思うと言えば、フィギュアスケートが、いつもひっかかる。あれは技術点のほかに表現なんかも点になるというが、そんならみんな音楽とか衣装とか、はては演目の技の流れとか、全部一緒にならないと、競技として評価できなくはないだろうか。
漫才コンテストも同じように、全部ネタを統一して基準とする  たとえば、全組みダイラケの「家庭混戦記」をやらせるとか。歯切れと間合いだけで審査する。ネタ自体を勝負するなら漫才作家コンテストをやればいい。落語のコンテストなら、全員「子ほめ」とか。

つまんなかろうなあ。興行として成立しない。

にかく、わたしの原稿は、あとはポストに放り込むだけだ。「もうこれで決行」と自らに断じているのだが、やはりいつまでたっても、どこまで粘っても、悶々とする。もともと完成が見えにくい芸道だから、いつまでもひっかかる。

世の中にはなんどもかんども投稿をしまくっている人がいる。すごい精神力だと思う。選ばれるのも選ばれないのも非常に不透明で多分に主観の強い世界において、投稿者は我が子たる作品の命運をまかしきる。そのメンタルは、並大抵ではないと思う。

ブレイブガールスープレックス

ブレイブガールスープレックス

鉄板を背負った一週間

ちょうど一週間前だった。覚えている。一週間前の土曜日、昼下りくらいからじわじわ肩が凝りだし、時間が経つにつれ浸食していくように背中じゅうの筋肉がこわばり、数時間でにっちもさっちもいかなくなった。広がっていく感覚を、よく覚えている。一時期、氷水をかぶるのがはやったのがあったが、あの病気に罹ったのかと思ったほどだ。

グリーンボーイ・アッパータイム

グリーンボーイ・アッパータイム

先週の金曜日  実は、「これまずいよな」と感じていた。久しぶりに外で仕事の原稿を書いた。ドトールで、モバイルパソコンで。久しぶりの外環境だったので、妙にはかどった、というか、のめりこんだ。モバイルパソコンというのは、小さい。しらずしらずのうちに、身体がまるくなる。肩がせばまり、首がのめり、背中がずっとまがったままになる。これはきっと肩か腰にくるなー、と予感していた。

案の定だ。翌土曜日に始まった異常な凝りは、日曜月曜と経つうちに、どんどん強張り、面積を増し、両肘、両ももの外側まで達した。しまいには息をするのも苦しくなった。その間も、原稿が溜まっていたので、ずっと仕事はしていた。さすがにモバP@ドトールではない。自分の家で、首にマフラーをぐるぐる巻きにして  コルセットの代わりだ:痛みのあまり首を自立できずにいた  、デスクトップパソコンで作業した。

いままで、肩凝りなんて、放っておいたら治っていたのに。
今回は全然治らず、火曜日の朝にこらえきれず整体に行った。
若い先生、こう言った。

「あちゃあ、重症だね」
(触りながら)「うはw」
「これは通ってもらわないと……」

マジかよ。
通う時間が惜しい。保険が利くとはいうものの、金もかかる。
良い事ないな。

肩凝り腰の痛みは職業病だ。パソコン仕事をする人は、避けられない運命かもしれない。自分でもそう思っていた。だましだましだよねえ、と。
けれども、今回のように、日常生活に完全に支障が出るクラスのやつは、だましだましというレベルじゃない奴は、どうしようもない。
まるで一週間鉄板を背負っていたかのようですよ。重いだけじゃなく、鉄板が身体に食い込んで痛い。一週間経って多少軽くなった気がするけど、それでも分厚い木板ぐらいの感じはするのです。

まあ、姿勢に気を付けるしかないんでしょうけどね。


▼これ私の本です。

ブレイブガールスープレックス

ブレイブガールスープレックス

 

整体の診療代に、ご寄附のつもりで('A`) おもしろいよ。

労使ニコニコ「私的」3つの採用基準

きょうもきょうとてガス抜きブログだよ。

つも爺臭い&貧乏くさいことばかり書いているので、今回は、どこかの誰かに役立ちそうな、ちょっとしたノウハウを書いてみよう。ノウハウと言っても、「私はこうやってきた」「それであまりしくじったことはなかった」という程度のことであり、必ずしも永久不変の黄金技ではないから、そのへんは承知で願います。

今日申し上げるのは「極私的・人を採用する時に見るべきところ」。
小林はいまでこそフワフワとお気楽ノベルを書き綴っているが、以前はちゃんと働いていた。その中で、人の採用に関わることがたびたびあり、実際に募集をかけたり雇ったりしていた。時には大当たりの人物にめぐりあい、時にはその逆もあった。前者はよいとして、後者はほんと心苦しく、雇う側も雇われる側もダメージである。

面接に来た人材のどこを見るべきか。

これは非常に難しいテーマだ。
ところが、ある時から「いくつかの基準」を用いて採用したところ、あんまりハズレを引かなくなった。
その基準を申し上げよう。

ブレイブガールスープレックス

ブレイブガールスープレックス

 

1)兄弟姉妹構成

どんな作業をしてもらうかにもよるけれど、それでもやっぱり、私は末っ子イチオシである。生物的にも優れていると思う。後の子は最初の子よりも母体のストレスが低い状態で生まれる。ポテンシャルも、ドラえもんとドラミちゃんじゃないが、先に生まれるのは上澄みで、あとに生まれる方が養分が沈殿して濃縮されている  ような気がする(疑)。ほら、あとの子の方が背の高いケースが多いでしょう。

…とまあ、そんな風に思っていのいちばんに挙げたけど、出産・子育てが便利になり一人っ子も多い昨今、末っ子神話は迷信に近いかもしれない。

ちなみに小林は長男です。

2)スポーツ歴

適度な成功体験を積んでいるかを知るために、スポーツ歴は面接で必ず聞く。別にスポーツじゃなくても、文科系の成功体験でもよさそうだが、文科系の成功体験は個人プレーの物が多く、芸術など主観的な評価であり、いつも適切な人格形成に結びついているとは限らない。私がスポーツにこだわりたいのは、チームで動けて/勝利という絶対目標から目を逸らさず/自分に自信を持てる結果を体験したことがある、というところだ。それに、体育系なら多分に健康優良だろうし。

ただし、あんまり大きな大会で優勝したとか、輝かしい結果を残している人は、ちょっと違う。雇う側にそういう人がいっぱいいればいいが、普通そんなことないでしょう。いろんな意味で意識に差が生じ、和を乱してしまうこともある。常にいい人材を、じゃなく、我が社に分相応の、ということもあるのだ。

3)学歴

内容を見るのではない。義務教育を終えて、浪人したか、留年したか、塾に通ったか、などなど、どういう過程をたどったかをうかがう。早い話が親から期待されてきたようなプロセスがあるかどうかを見る。お金持ちが湯水のように塾だ家庭教師だと注ぎ込んで作り上げた高学歴の子供でも、あんまり親との心のコミュニケーションが無い場合がある。逆に片親で貧乏してても、親が自分の人生をなげうって子供に費やしているケースもある。つまり、期待されること、それに応えようとすること、そういった交感に対するメンタルが健全に育まれているか。その結果、ある一定の学歴に達していて、それが彼(彼女)にとって何を意味しているか、そこを判断するのである。
まあ、この辺は雇う側にもバランス感覚が要求される。

 

じて「自分に対し健全な自信をもっているかどうか」ということだ。面接にはいろんな奴が来る。馬鹿デカい声で「ヤル気は負けません!」と騒ぐ奴、カードストックに資格免許証をいっぱい持ってくる奴、外国語が堪能な奴...etc。そやつらは確かにパッと見「どこそこに打ってつけだ」「アイツと気が合いそう」と、会社のメリットに結び付けやすい。しかし、ホントに見るべきところは、健全な自意識を獲得しているかどうか。そういう人の方があとあと伸びるし、ちゃんと接していけば裏切らない。案外地味で寡黙な人が適っている場合もある。やっぱりそういう人を採用したいもんじゃないか。

ところで、小林がかつて人を面接していたのは、小企業・零細企業ばかり。ある程度仕上がった人材を雇い、その能力にあずかろうというのが前提で、それにくわえて社会人として一人世の中に立つ強い自己を求めていた。
これが大企業になると、社員教育の中に人格形成を盛り込んで、会社で社員に自信をつけさすところまでやっちゃう。

いやああ、すごいな。そんなん。

自信付けたいから本を買ってください。

グリーンボーイ・アッパータイム

グリーンボーイ・アッパータイム

 

 

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