アヲイ報◆愚痴とか落語とか小説とか。

創作に許しを求める私の瓦斯抜きブログ

無責任落語録(25)「湯屋番」

いもので12月である。去年の今ごろもそうだったが、年の瀬は焦る気持ちが募る。

「今年一体何が残せたっけ?」

人生の時間には限りがある。焦れるのは、日頃から何かと挑んでいる証拠だ。「あれもしたいこれもしたい」と思うから、時間が早く過ぎる気がする。

もっとも実際は、

「結局何も出来んかった!」

「あれもしたいこれもしたい」どころか、やりたいことすら見いだせぬまま、12月を迎えてしまった。何か考えなきゃとは思っていた。だが、想像力が働かず……妄想でもいいからすりゃあよかった、と、後悔する。

 

を取って著しく感じるのは、妄想力の減退だ。
想像力・構成力・推理力といったものは経験値がモノをいうから、衰えるどころかむしろ増大したような気がする。同時に思い込みみたいなものも強まって、徐々に自分が頑固な中年に熟れつつあるのも分かる。かたや妄想力は明らかに減った。  ああ、長らく思い抱いていない、煩悩と色気に満ちた、まどろむような恍惚。法悦の霧に敷かれ、ハッと気づいて赤面するエゴとエロ。世界を自分中心に廻す官能的思索は、今で言う「中二病」的なものではなかったか(過去形なところが中年だ)

いつまでも若くあるためには、官能的な妄想に妥協を許してはならないのかもしれない。

官能的欲求は、種の存続にかかわる感覚で、殖産可能(?)な若さを維持する有効な手立てであることに疑いはない。妄想力は、その官能を実現するための緻密な青写真である。よく、巷に年甲斐も無くモテ続ける爺さんなどがいるが、彼らに共通しているのは実にマメであることだ。マメというのは、相手の心理や行動のパターンを先読みするからできることであって、やはりそこには下心というか、官能の妄念が原動力になっているだろう。たぶん。きっと。

 

ある古典落語の中に、良き妄想者の手本といえる噺がある。
湯屋である。
勘当された若旦那の、湯屋の番台で繰り広げる妄想が、落語国の妄想茶人の中でもとびっきりにハッスルしている。※ 内容は各自ググるように。

明るく楽しく、軽く笑えるから、どこで演っても受ける噺だと思う。演者も多い。六代目三遊亭圓生・三代目三遊亭金馬・三代目古今亭志ん朝・五代目柳家小さん・十代目柳家小三治……初代林家三平も演じている。だが、誰もが演るからといって決して簡単な噺ではないと思う。テンポを一度でも崩すとグズグズになりそうだ。

蘊蓄を述べると、この噺は三遊と柳で違いがある。三遊では湯屋の名が「桜湯」、柳では「奴湯」だ。といっても、五代目三遊亭圓楽は「浜町の梅乃湯」で演っているから、そこまで厳密ではないようだ。また、三遊では若旦那が熊五郎の勧めで湯屋に赴くのに対し、柳では若旦那が自ら湯屋を志して行動する。
ちなみに銭湯のことを江戸では「湯屋」、上方では「風呂屋」という。

 

の噺のメインは、なんといっても番台に上がった若旦那の妄想劇である。ひとつひとつの妄念をいちいち検証しながら先に進めていくところが特長である。

~私が番台にいると、女湯の一人が私に惚れるね。女はそうだな、年増……は興味は無い。娘っ子じゃダダをこねて面倒だ。そうだなァ、どこかの旦那の愛妾がいいね。女中を一人連れてくるよ。

「あら、お清や、今度の番台さんはちょいと乙だね」

~女に言われて家まで訪ねていくよ。盛っているように思われるのも野暮だから、偶然前を通り過ぎる感じでね。女中が私を見つけて中に声を飛ばすよ。

「姐さん、お湯屋の番頭さんが、いらっしゃいましたよぉ」

待ち構えているものだから、泳ぐように出てくるね。

「あら番頭さん、今日はどちらへ?」

そこで私は答えるよ。「いやあ今日はマキ集め」こりゃ良くないな。「釜が壊れて早仕舞」これも野暮だ。……うん、母親の墓参にしよう。

そしたら姐さん、こう言うね。

「まあお若いのに孝行なこと」こりゃいい!

~酒を差されてすぐ飲んじゃガサツでいけない。かといって飲めないってのもつまらない。そうだ、こう言おう。

「いただけますればいただきますし、いただけませんければいただきません。ェエ、右や左の旦那様ァ」って、これじゃ乞食だよ。

セーブポイントでセーブしながら全シーンをコンプしていくアドベンチャーゲームのように、若旦那は妄想のあらゆる状況を裏も表も味わい尽くす。これぞまさに妄想の正道である。

その途中々々を、男湯からの視点がツッコミとして入っていく。冷静な視点かと思いきや、面白がって赤の他人に「お前も見ろ」と促したり、見入るあまりに軽石で顔をこすって流血したり。客観的視点まで笑いを担おうとするところが、この噺の腰の強さだ。

最大の見せ場は、若旦那の芝居仕立ての妄想である。

~雷もキリキリと鳴ったら凄いね。女は歯を食いしばってひきつけを起こすよ。私は盃洗の水を口移しに飲ませるね。そしたら女はうっすら目を開けて言うよ。
「今の水の、うまかったこと。……雷様は怖けれど、私にとっては結ぶの神」
「ヤヤッ、そんなら今のは空癪か」
「うれしゅうござんす、番頭さん……」

妄想も基礎の上に立てば貫禄すら帯びる。

 

居掛かりの後、ネタは一気にラストに向かうが、正直ストンと落ちるサゲではない。若旦那の艶っぽい語り口が印象に残っているうちに、突っ走って噺を終えるのが無難だろう。

話が前後するが、噺の冒頭、若旦那が湯屋に向かう前にも、熊五郎とのちょっとしたやりとりがある。おしなべて下らなく、客席をヘラヘラさせるに留まる。そのお陰か、後に来る番台の独り語りが効いてくる。

そう考えると、この噺は前の演者が濃いネタだった後にいいかもしれない。前を受けてヘラヘラ程度でスッと入り、中でしっかり笑わせる。笑わせると客席は疲れるから、最後に少し緩めてサゲる  次の人が演りよい。前後の演目に気を遣える噺のような気がする。

   *

こうしてみると、若旦那には非常に明確な女性観・粋不粋の別・芝居をバックボーンにした男女間の理想型があるようだ。良い妄想のためには美学が必要であることを思い知らされる。そらそうだ。自分の好きなものをイメージできない限り、妄想しようにも手立てが無い。年の瀬だろうが年始だろうが、「あれもしたいこれもしたい」を思いつかないのも当然である。まずは自分磨きができていなければ、毎年同じ焦燥を繰り返すだけだ。

ようし、来年は良き妄想のための美学を養おう。

  こうして私はどんどん常識的社会人としての枠組みから外れてゆくのでした。……ま、実際はそんな勇気を持ち合わせておらず、どっかで我に返って小市民である自分に安堵するんだがね。

以上です。

無責任姉妹 1: 漆田琴香、煩悶ス。 (さくらノベルス)

無責任姉妹 1: 漆田琴香、煩悶ス。

ダラダラ宣言

最近は仕事が多くて、あまり【自分の活動】ができていない感じです。

自分の活動といっても、趣味で物を書くくらいで、それだってせいぜいこのブログくらいのものです。

まあ、仕事の有るのは有り難いこと。けど、ちょっとキツイかなってくらい、ある(貯めこんじゃったのは自分だが)。お客は待っているので、今は仕事に集中です。

こう言う時に限って、普段思いもしないことをやってみたくなる衝動が湧きますね。試験前に、普段読まない本を読み耽ってしまうアレです。現実逃避です。

このブログで綴っている落語録も、そろそろネタが尽きてきたような気がします。
情熱があれば取材して(ネットサーチの範囲内ですけど)いろいろ論を組み立てたりするんでしょうけど、ま、自分の中にあるものはあらかた出尽くしたかな、と。

しばらくはダラダラしよう。

うん。

無責任姉妹 1・2巻コンプ版: 漆田姉妹、跋扈ス。 (さくらノベルス)

無責任姉妹 1・2巻コンプ版: 漆田姉妹、跋扈ス。 (さくらノベルス)

 

 

無責任落語録(24)「三代三遊亭金馬」

段、生身の人間と話す機会がほとんどない。そんな状況で日々動画共有サイトなどの落語ばかり視聴しているから、私の耳に入ってくる人間の声は9割9分は落語家の声である。それもほとんど鬼籍の人。おまけに、こういうブログを誰が読むともなく、金になるわけでもなく、たたただ純粋に好きだという一心から書いているわけで、私の脳みそはまるっきり落語オタクなのである。

そんなだからごく稀に人に会っても、ついつい落語の話をしてしまう。いや、落語そのものの話をしなくても、自然と落語用語を比喩や引用で使ってしまう。

あいつらはゲンベエさんにタスケさんだからなあ。

え? ぼく? もう一杯ビールが怖い。

んでさ、その時の道中の、陽気なことォ♪

これはもう病気だ。
ちなみに、上記の元ネタが分かる人がいたら病気の可能性は多少あるけれども、この程度じゃまだ全然軽症なので、もっと落語を聴きなさい。

 

の友人はみなとてもとてもいい人たちばかりなので、私が落語好きであることを知ると、興味を示して(社交辞令なのかもしれないが)こんなことを尋ねてくれる。

ねえねえ、落語って、誰のを聴いたら面白い?

女性からこんなことを言われたら、求婚されたかと思うくらい喜ぶ。といって男から聞かれても、別に悪くは思わんぞ。

この質問、実は非常に難しい。今の噺家で挙げるか、私が好きな噺家(鬼籍込み)で挙げるか。ただただ笑えるものを挙げるか、落語芸として秀逸なものを挙げるか。落語布教のチャンスである。失敗は許されない。誤ってその人に遇わないものを教えて「つまんねえ」とか思われたら最悪だ。きっとその人はまた別の人に「アイツが落語面白いって言うから聴いたけど、時間の無駄だった」などと言いふらすだろう。悪い噂は良い噂よりずっと早く広まるという。嗚呼、この苦悩はおそらく、BLを布教する腐女子における伝導の困難さに通じるものがあるだろう。

 

心者に分かりやすく、聴きやすく、面白く、なおかつ「ほかの噺も聴いてみたい」と思わせる落語家とは  。いろいろ考えた結果、私は三代目の三遊亭金馬師匠こそその役にふさわしいと思う。

野太い声ながら表現豊か。調子はなめらかで卒がなく、噛むことなんてほとんどない。元は講釈師だったそうだが、雰囲気がおかしいからお客がどうしても笑ってしまい、勧められて落語に転向、初代円歌に入門したという。

リズムがあって知性もあって、飾らない可笑しさがある。実際、数多くの随筆を残し、エッセイストとしても優れている。見た目のインパクトもすごい。つるっつるのやかん頭に出っ歯。一度見たら忘れられない濃さがある。一名「やかん先生」。

演じるのはほとんど古典落語だが、新作も多く、秀作ぞろいだ。ぜひ聞いてもらいたいのは金馬の最大の当たりネタ「居酒屋」である。耳に残るのは、小僧さんの御品書の読み上げだ。

できますものは、つゆ、はしら、たらこぶ、あんこうのようなもの。ぶりにお芋に酢だこでございます。ふぃいぃぃぃ。

セリフを調子よく諳んじることにかけてはこの師匠を超えられる噺家はあるまい。耳に馴染んで心地の良い口調は、さすがは講談出身である。

孝行糖の本来は、うるのこごめにかんざらし、かやにぎんなん、にっきにちょうじ、チャンチキチ、スケテンテン(孝行糖)

古い蜀山の歌に「まだアオい、シロ(う)と浄瑠璃、クロがって、アカい顔して、キな声をだし」なんて川柳がございます(寝床)

その他にぜひ聞いていただきたいのは「勉強」「真田小僧」「高田馬場」など、枚挙にいとまがない。人情話では「藪入り」も秀逸だ。

 

ういえば、自分のやかん頭を見せてしばしばこんなことを。

まだわたくしの頭に緑の黒髪はなやかなりし頃  どうぞ、そう緊張なさらずに。

客がどっと笑う。客席の空気を見事にコントロールする自虐のフレーズにも,ひとつかみの知性が漂う。六代圓生大山詣りで自分の薄毛を笑いにする録音があるが、大看板の自虐ネタは反則級の弛緩術である。

 

は大好きだし、事実誰が聞いても楽しくなれる金馬師匠なのに、往年の落語界での評判はあまり芳しくなかったようだ。当時の落語評論家は金馬の落語を俗っぽすぎるとしてこきおろした。トリで金馬が上がったら嫌な顔をして帰ったという。また、志ん生圓生は金馬とリレー落語を演って「ひどい目に遭った」とこぼしたそうだ。

評論家も両師匠も、何がそんなにいやだったのか。

金馬は途中から東宝専属になり、寄席には出ることができず、半ば孤高の落語家となる。それでいて往時もっとも売れた落語家だったから、おそらくやっかみみたいなものもあったのだろう。また、落語そのものも、活躍の場が普通の落語家よりラジオやレコードの割合が多いために、抑揚や声音に寄るところが大きく、演り方がオリジナル化しているところがあったのかもしれない。

けれども、桂文楽はとある落語会の顔付けを見て「なんで金馬さんがいないの」とメンツに疑問を呈したと言うし、志ん朝・談志は金馬を大きく評価している。事実、古い人に尋ねれば、金馬落語で落語好きになったという人は多い。あの調子のよさ、鮮やかさを聴いて、落語なんて不愉快だと云う人はいないだろう。

しばしば桂文楽を「きれいごと」「楷書の芸」などと評するが、この人もまた同様である。両者とも三代三遊亭圓馬(橋本川柳)の薫陶を受けたというから、圓馬師にそのルーツがあるのだろう。確かに両者には圓馬師に通じる口跡がある。

   *

最近、落語がますます流行っているようです。

これは、とある噺家さんに直に聞いたのですが、落語は流行るとダメになるんだそうです。というのは、寄席の客が甘くなって、演る側の芸どころが鈍るんだとか。たしかにホール落語一辺倒の流派はクサイですもんねェ。

実は落語の入り口って難しいのです。

中年世代の自称落語好きに尋ねると「桂枝雀から聴きはじめた」って人、多いんですが、この人たちも結局枝雀から広がらない。枝雀ファンで停まっちゃってる。彼があまりに面白すぎるから  と同時に、彼はすでに古典芸能としての落語からだいぶ離れていました。そこ行くと、談志ファンはきちんと古典落語に流れていきましたね。さすが家元だ。だいぶ改作されましたけど。

もしこれから落語を聴いてみたいなという方には、ぜひ金馬師匠を聴いて欲しいです。落語耳の基礎となること間違いなし噺家に限らず、ネタのみならず、落語そのものがスッと入ってきますから。

以上です。 

無責任姉妹 2: 漆田風奈、逆上ス。 (さくらノベルス)

無責任姉妹 2: 漆田風奈、逆上ス。 (さくらノベルス)

 

 ▲立河団十郎が三題噺「鰍沢」を演ります。

 

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