アヲイ報◆愚痴とか落語とか小説とか。

創作に許しを求める私の瓦斯抜きブログ

試論

 コンピューターの進歩により、人間が脳筋に力を込めて物事を考えなければならない状況が減っています。とにかくIT利用が拡大している。インターネットやAIの恩恵です。くわえて、SNSでおびただしい量の情報が拡散されている。よく「経済がインフレしている」なんて言われますが、実は最もインフレしているのは「情報」でしょう。情報は、素早く・広範に・他情報との関連(ハイパーリンク)と合わせて伝わるようになりました。「一昔前より」なんて悠長なレベルではありません。きのうよりきょう、きょうよりあすは、もっと情報インフレが進んでいます。

 そんな環境下では、人々が情報に価値を感じなくなって当然かもしれません。人間が思考して何らかの情報体系を構築する、あるいは情報の価値を思考によって認識しなおす――これらの行動を人間の頭脳がやるのを、人はもはや不合理と感じるのです。コンピューターにやらせた方が、早いし確実だし、楽なのです。

 この便益の弊害として、情報の価値判断についての人間の認知能力が弱体化することが挙げられるでしょう。人はいつしか軽い刺激で過剰反応するようになりました。その舞台は主にネットで、炎上という形をとって顕現します。マイノリティーへの政治的姿勢やイデオロギーの違いに敏感に反応する様子を見ていると、社会全般がヘイトを生み出しやすい性情となっているなあと思います。これほどまでに敏感で攻撃的になったのは、ひとえに「深く考えることをしなくなったから」だと、私は思うのです。なぜなら、彼らにとってそれは不合理だからです。不合理を強いられる時、人は強い不快を感じるものです。そしてそれを見せつけられる時も。

――いや、やはり、全然考えないとまでは言いますまい。ただ、人の機微、すなわち心の襞の影なる部分に思いをいたすことが億劫になり、それを長らくしないがゆえに、影なる部分に想像力を働かすことも、それが想像の対象であることも認識できなくなっている――そういう状態なのではないかと思ってやまぬのです。

 それでも一部の人々は、専門的(あるいは偏執狂的)に思考して、意見を発信するのでしょう。だが、大衆はというと、考えること自体を馬鹿馬鹿しく感じ、諦観と無関心に満ち満ちている。馬鹿馬鹿しいことに執拗にこだわって自己主張を発信する他人を見ては、「合理を弁えぬ愚かしい生き物」と唾棄せんばかりに苛立つ。その憎悪を解剖すれば、成分の半分以上は嫉妬だったりするのですが。

 とにかくそんなことだから、人は日常的に積極思考を行わなくなり、必然的に自身の力で言葉を活用しなくなるので、他人に文章を任さねばならなくなるのです。

試論

 凝り性というのは、凡庸なる人がクリエイティブワークで生きていく際に、唯一の武器たりうると思います。

 グラフィックの世界の突出した人々の仕事を見ると、一般人にはおよそ及びもつかぬ至高の天分が与えられているように思います。たとえば線を1本引いただけで、すでにデザインになって見えます。その線をじっと観察すると、太さや筆圧、角度、エッジの摩滅具合といったものが、見事な調和を顕現しています。その秘訣は、おそらく、どこを見て描いたか、腕の筋肉のどこを使ったか、息を吸って描いたのか、吐いて描いたのか――等々、おびただしい要因が、まるで宇宙の天体が十文字に並んだみたいに奇跡的に重なっているのでしょう。しかも彼らは、その奇跡をまるで呼吸するように当たり前にやってのけるのです。天才ってやつです。アートに限らずスポーツなんかにも、そういう人がいますね。

 達人の技芸について以上のような説明をすると、「それはお前がそういう人たちの努力を想像できないだけだよ」と、いわゆる「思考停止(浅薄ゆえに他人の優越をつい『才能』と呼んでしまう人のあるある)」のように思われるかもしれませんが、実際に天才芸を目の当たりにすると、そうとしか言いようがないものです。

 さて、ローカル広告の商業アートにおいて、マーケットにもし斯様な天才がいたら、同町の凡庸なデザイン担当は、嫌でも彼らと伍していかなければなりません。いかなる戦術があるかというと、やれることはただ1つ。まずいなりにとにかく作り込みを徹底する。めちゃくちゃ手の込んだ、非常に細かい手仕事を膨大な量こなす。いわゆる力ワザ。これしかありません。描きだす線が凡庸極まりなかったとしても、血飛沫の飛び散るような力ワザを繰り出せば、見る人に一瞬息を飲ませることができます。そう、一瞬でいいんです。それはインパクトという側面において、天才肌アーティストの仕事を超えることがあります。美しいとかキレイとかじゃなく、乱暴に記憶に残す、刻み込む、そういう手法です。それがクライアントの目に留まり、次の仕事につながっていくということもあるのです。

 圧倒的な作り込みをしつづける力ワザのビジネススタイルは、一筆描きで心を惹きつける真性アーティストの仕事と比べると、労働効率的にめちゃくちゃコスパは悪いです。しかし、作り込み系の作業というのは、それなりにコツがあって、何度も何度もやっていると、手が早くなってきます。力ワザでこなせる仕事の幅が見えてくれば、その中で見せ方も増えていきます。そうやって凡庸なデザイナーが徐々に普通よりちょっとできるアーティストに変わっていく――これが確かな再現性を持つプロデザイナーの成長プロセスだと思います。

 このやり方、いわゆる作り込みとは、自分の中に一つの理想を措定し、自分の技量をそこに限りなく寄せていく作業であり、性格的に必要な特性は、まさに「凝り性」でしょう。自分が「凝れてる!」と納得できる技芸を追い求める連続において、少しずつ、でも確実に良い仕事に近づけていく――そうしないと気持ち悪くてしょうがない――とまあ、当人としてはいつまで経っても心の落ち着かない、一種の業病のような性情なんです。

試論

 滅多にないのですが、地元の同人の集まりに呼ばれたりして顔を出すと、「作家は生き方だ」と称して(完全否定できるほど間違いではないんでしょうが)自称作家を名乗り、そういう名刺を出してくる人がいます。しかし、これはやはりやめたほうがいいんじゃないかと思います。全然文芸趣味に理解や興味関心のない人は、自己紹介で「私は作家です」と名乗られると、「そりゃすごい」「これまでどんなものを何冊くらい出版されているんですか」「どこの書店で買えますか?」などと尋ねます――そういう返しをしなければ失礼に当たるのではないかと慮って、社交上義務的に質問するのです。ところが同人の方はそんなものはないので答えに窮し、「いや、売ってる本はなくてですね」「出版かどうかは作家の定義ではなくてですね」等々、口ごもります。同人でもまれに熱の高めの人は自費出版していることがありますが、前述のような質問を重ねられると、世に見出された書き手でないことが明るみになり、口ぶりが徐々に力を失っていきます。そうなると、尋ねた方は、何か悪いことを聞いてしまったような気がして、バツが悪くなります。こうして場の空気が悪くなるのです。
 実績のある本職でない限り、作家・小説家を名乗るべきではなさそうです。私の思う職業作家・職業小説家は、「出版社の金で少なくとも二つ以上の作品を印刷・製本・流通してもらったことがある」「所得税の大半を印税・原稿料で納めている」、この二つを満たしている人です。
 しかしですね……例えば、アマゾンの個人出版サービス『キンドル・ダイレクト・パブリッシング』で年間一千万円以上売り上げるような素人はプロではないのかと問われたら、本人が頑なに否定しても、これはもうプロでしょう(少なくとも税務署はそうとるでしょう)。時代が進むと定義が変わってくるかもしれません。

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