アヲイ報◆愚痴とか落語とか小説とか。

創作に許しを求める私の瓦斯抜きブログ

無責任落語録(23)「めけせけ」

書の秋だというのに、KDPにまつわるあれこれを眺めていると、混沌としている。講〇社が抗議文みたいなメッセージを掲出して引き揚げたのをはじめ、読み放題の失策をあげつらう噂話が方々で聞かれる。読み放題以外にも、最近はアカウント画面の反映が遅かったり、数値が違っていたり。アマゾン屋さんは、きっと滅茶苦茶忙しいのだろうな。

そういえば、読み放題とは関係ないけど、こないだ「オヤ?」と思うことがあった。先日、何気なく自作のとある巻のアマゾンページを見たら、162円に設定していた値段が勝手に0円になっていたのである。実はその巻、よそのサイトでは常時0円で配布をしており、アマゾンのみ有料にしていた。でも……プライスマッチの申請は出していないのになんで? 

私は100%アマゾン屋さんの手違いだと思い、さっさと戻してもらうべく問い合わせた。ところが、アマゾン屋さん曰く「それでいい」のだ、とのこと。そのココロは…

Amazon では、価格競争力を最大限に高め、Amazon の出版者様にとって最適な販売環境を実現するために、慎重な協議のうえで本の価格を決定しております。また、すべてのマーケットプレイスの小売価格は Amazon の判断により決定させていただくことになっております。云々

なんとまあ。

まあ0円のままでもよかったんだけど、試しによそのサイトの値段を162円にしたら、いつと知れずアマゾンの価格も同額に戻っていた。こちらから「よそを有料にしたよ」と伝えたわけではない。一時期「0円にしたいのにプライスマッチ申請が通らなかった」というツイートが流れていたことがあったので、無料にするのは大変なのかと思っていたが、まさかの強制0円には驚いた。

それにしても、ほとんど売れてやしない私の作品に対して、リサーチというか、チェックというか、アマゾン屋さんの注意が行き届いているのは、すごいなあと思う。ご苦労様です。ほんと、最初は何が起こったのかと、わけが分からなかったよ。

 

の中、わけの分からないことだらけだ。
私たちの社会は、秩序の枠内で回っている。秩序は「常識」の集合体である。人は、互いが常識を有していることを前提にして初めてまっとうに交流できる。常識の無い人とは話にならない。信用できないから、物事も進展しない。

もしかしたら落語は常識的世界と非常識な世界を橋渡しするものかもしれない。なぜなら、ほとんどのネタが、非常識なモノゴトを「オチ」という常識的調和の中に引きずり込み、「笑い」という認識可能な方法に変換する作用を持っているからだ。つまり非常識は、落語を通じて常識的に理解されうるのである。

非常識を笑いの「燃料」とすると、笑いの点火プラグは皮肉を理解する知性であろう。個人と個人、個人と社会の間に横たわる非常識が、皮肉として知覚され、笑いに昇華される。笑芸において演者は基本的に常識的な立場に立ち、語りの中で非常識を紐解いていく。時にオーバーに、時に鋭く、時に哀しげに。本来笑芸とは、ネタそのものより、その技芸を楽しむものだと思う。

こういったロジックを落語に落とし込んだのが、五代立川談志のイリュージョンだと思う。古典落語を下敷きにすることで、どんなに過剰な逸脱であろうとも制御が可能だった。

だが、談志がイリュージョンを提唱するよりずっと以前に、聴衆を非常識の彼方に追いやるネタが存在していた。

それが今回紹介する「めけせけ」である。

 

けせけをこのコーナーに載せるべきか  。実は非常に迷った。この噺は古典落語ではないし、それ以前に落語じゃない。むろん、寄席で掛かったこともなければ、実演されたこともないだろう。

そもそもこのネタは、タモリがレコード「TAMORI2」の中で発表したものだ。日本語のハナモゲラ様式を古典落語の風合いに落とし込んだ、いかにも日本語らしき、いかにも落語らしき「思想模写」の一例示である。そういうわけだから当初は【番外編】として載せようかと思った。しかし「めけせけ」自体は最後のオチらしきところをのぞけば落語としての技芸  人物造形や所作仕草、語りの技術  を必要とするものであり、先に述べた笑芸の本来的な部分を十分要求するものだと思うから、連番に加えることにした。このネタの唯一の演者であるタモリに落語家としての熟練を認めて掲出するわけでないことは、前もって申し上げておく。あくまでネタの豊かさ、面白さである。

個人的にはタモリさんの芸は超がつくほどツボです。中洲産業大学や密室芸、一連のハナモゲラ語は、落語を愛好する前からハマってました。オペラ昭和任侠伝なんて最高ですよ。タモリさんは不世出の芸人です。

 

コードに収録された「めけせけ」は、タモリの得意な物真似や世界観の演出が功を奏し、あたかも本当の落語のように作られている。

出囃子は「野崎の送り」。華のある出囃子で聞き手の気持ちが盛り上がる。のっけの語り口は三遊亭圓生を彷彿とさせる。野崎を聴けば黒門町を思い浮かべてしまうだけに、なんだか妙な感じだ。軽くて滑らかな語り口は、本職顔負けである。ネタに入り登場人物の掛け合いになると、おかしみのにじみ出る柳家小さんの語り口に。たまに圓生に戻り、再び小さんにかえる。名人上手のいいところを抽出している。さすが物真似上手だ。音源にはお客さんの笑い声が入っているので、寄席にいるような雰囲気が見事に仕上がっている。動画共有サイトを探せばどっかにあるかもしれない。ぜひ聞いてみてほしい。

次にネタとしての「めけせけ」に触れてみよう。
簡単に言うとこんな話だ。

留公がご隠居に『めけせけ』とは何かと尋ねる。ご隠居は「『めけせけ』も知らんのか」と呆れる。
「それじゃお前、『はかめこ』は知ってるな」
「はい、それは知ってます」
「その『はかめこ』の上が『めけせけ』になるんだ。わかったか」
「へぇ……、はい」
やっぱりわからないので寺の和尚に聞きに行く。すると
「『せけめけ』は仏教でいう『へれまかし』のことだ」
それでも合点がいかないので今度は若旦那に尋ねると
「ちょうどおれも『せけめけ』について話したいところだった」
「で、『せけめて』って何ですか?」
「お前に『へけまか』と『せけめけ』が分かってたまるかい。じゃあ『もろ』なら分かるな?」
「ああ、『もろ』は分かります」
「じゃあ『もろ』に『せけめけ』ときたらどうなる?」
「ええと、『はかまか』ですね」
 そんなやりとりがしばらく続き、
「じゃあ『むかしね』の横には何がある?」
「え?」
「『むかしね』の横には何があるかってんだよ!」
 ここで地の口調になりサゲ。
『むかしね』の横には『うりしらべ』がございます。

だいたいこんな感じである。

ず理解しなくてはならないのは、二重括弧(『』)の単語は全て意味が無いということである。しいて言うなら、いかにも日本語的な音の並びであるという点  タモリは四か国語麻雀など疑似外国語ネタで人気を博したが、これはその逆の発想で、外国人が聴いたらいかにも日本語に聞こえるだろうという音の羅列を表現しているのである。

途中から『めけせけ』が『せけめけ』になるのは、なぜか分からない。レコードに吹き込むくらいだから間違いでは無いのだろう。留公のおっちょこちょい振りを表現しているのかもしれない。

噺の主眼は、留公が『めけせけ』の意味を追っていく過程で新しい言葉に出会い、ますます混乱していく様子の描写である。ご隠居・和尚・若旦那という落語界常連の顔ぶれと掛け合いは、まさに落語の空気であり、落語素人どころか、ちょっと聞き齧った人でも落語として聞いてしまうだろう。

 

の噺の特質すべき点は、オチのひと言だ。

『むかしね』の横には『うりしらべ』がございます。

非常識な世界を常識に変換し、笑いに変えるのがオチの役目である。どんなに不思議なネタも、オチを聞いて「ああ、そういうことか」「なーるほど」となり、聴衆は常識の世界に帰ってゆく。

ところがこのネタは、噺のきっかけである『めけせけ』は解決しない上に、『むかしね』という意味不明なものが『うりしらべ』というもう一つ不明な物の横にあるということを言って、いかにも満足気に噺を切り上げてしまう。聴衆は常識世界に帰してもらえず、非常識に置き去りにされる。しかも録音された観衆の拍手と歓声によって、自分だけ常識世界に帰ってこれなかったような感じがし、非常に孤独な気持ちにさせられてしまうのだ。

類似した噺に古典落語「転失気」がある。分からない言葉の意味を追いかけるという点が同じだ。こちらはオチで聴衆を常識世界に帰してくれる(超くだらないダジャレで噺が客と決別する)が、「めけせけ」は聴衆の帰還を落語の常識ごと拒絶する。まるでタモリの嘲りが聞こえてきそうである。

 

けせけ」は、常識の織りなす予定調和を遮断し、さらに、世に有り難がられる常識の根拠が実は衆愚にあることを間接的に暴露する、常に常識の対極に位置するネタである*1。 談志のイリュージョン落語にはこれは無かった。イリュージョンは常識の向こうに非常識があることを伝えながら、立地点はあくまで常識側だった。それはそれでいいのだ。そうでなくては落語でなくなってしまう。

それじゃやっぱり「めけせけ」は落語じゃないのかと言われたら  落語じゃないんだろう。無辺にカテゴライズされる落語蘊蓄の中の一つには加えてもよさそうだが、やはり落語ではない。私の中の一つの基準は「それ、寄席で掛けられるの?」である。「めけせけ」は客層を選びそうだし、後に上がりにくいだろうし、少なくとも笑いを保証できないから、厳しいのではなかろうか。

誰か勇気ある噺家さんがいらしたら、ぜひ演っていただきたいものである。

   *

今回はイヤに小難しくなりましたな。
たまには美味しいものを食べないと、脳が屁理屈ばかり言いたがりますな。
次回はもっと『ほふらわ』とした感じで書きたいと思います。
そういうわけで、次回も読んでくれるかな?
いいともー
お時間でございますm(_ _)m

無責任姉妹 1: 漆田琴香、煩悶ス。 (さくらノベルス)

無責任姉妹 1: 漆田琴香、煩悶ス。

*1:なんとなればタモリの芸風は、大衆そのものを題材にとって風刺的な傾向が強く、寄席芸のように前提としてお客様のご機嫌を伺うものでは無い。タモリはテレビ専門の芸人なのである。

無責任落語録(22)「五代立川談志」

責任姉妹3・4の無料期間終了しました(9/8~9/17)。ダウンロードされた方、ありがとうございます。今のところ何の反応もありません。「タダとはいえ貴重な時間をドブに捨てた」とか「なんかもう中身が無責任だ」とか思った方もいるかもしれません。怒りのあまり、★☆☆☆☆なんてしようとしている方、手を止めてください。一生懸命書きましたのでそれだけは許してください。

今回はKDPセレクトによる無料キャンペーンじゃなくて、プライスマッチを利用した無料頒布だったので、開始も終了もあまぞんさんにメールでお願いして、ご都合のよろしい時に価格設定をしてもらう方式を取った。その結果、一週間くらいやるつもりが十日ぐらいやったのかな。それぞれ200くらいダウンロードされた。無料ランキングでは最大瞬間風速26位を目撃した。一方プライスマッチの当て馬の方は、一冊も出なかったゾ。

もともと二つともリリースのタイミングが悪かった。売れない。見向きもされない。レコメンドもスッカラカン。なんとか刺激になればと今回の無料頒布をやって、たしかにレコメンドは多少埋まった。これで多少変わるかなと思って無料期間を終了したが  相変わらずですね。まあ、もう少し様子を見てみようとは思うけど、こんなのはほとんど初動で決まっちゃいますからね、初動で。


ダほど高いものは無いというが、物の価値というのは金の多寡に反映できるものなのか。こりゃまあ、ありきたりな話題で、「金=悪」みたいなのが結論になりがちだが、事実、金が集まるところに人の関心が集まっているのは確かである。世の中、もっとも当たり前に価値に目盛りを授けてくれるのが「金」であることは、間違いない。他に何かある? 水? 米? 美? 愛?

 

と金の関係について、記憶しているインタビューがある。2001年に古今亭志ん朝が亡くなった時の追悼インタビューで、五代立川談志が「金を払って聴く価値のある噺家志ん朝だけだ」と言った。私はこれを後年になって聞いたのだが、「家元、本気なの?」と思ったものだ。

立川談志は、1978年の六代三遊亭圓生落語協会脱会に際し、志ん朝の香盤を自分より下げるためにいろいろ画策した  と言われている。家元は芸を見る目は確かである。志ん朝の芸が自分より上だと思うなら、香盤のことをどうこう言うとは思えない。この頃、家元は間違いなく「志ん朝の芸は自分より下」と思っていたのだと思う。

ところがその態度がひっくり返る。

1983年、独立して立川流を立ち上げる。これまでは落語協会という一つのくくりの中で、自分が上、志ん朝が下と言っていれば良かった。だがこれからは立川流の家元として、同じような物言いをしていたんでは、相手と同格になってしまう。そこであの発言である。つまり「志ん朝という奴は俺が認めるんだからすごい奴なんだぞ」と、相手を上げることで自分を持ち上げている  ように聞こえる。そしてさりげなく「志ん朝の芸は金で測れる」という何だかイヤァなニュアンスも含んでいるようにも思われる。

志ん朝に対しては積年の思いもあっただろう。入門は家元が先、だが真打昇進は志ん朝が先。家元は回顧的インタビューで、自分の師匠柳家小さんが、顔付けで強く出られないと愚痴っていたが、落語界におけるパワーバランス的にも、家元は弱い立場だったようだ。志ん朝志ん生の弟子であり息子である。


川談志は、従来の落語の物差しでは測れない活躍をした。これは間違いない。落語の明著「現代落語論」の上梓、笑点をはじめテレビ・ラジオでの活躍、参議院議員沖縄開発庁長官、立川流の設立等々、枚挙にいとまがない。関東ローカルだった伝統芸・落語は戦後のラジオで全国区になったが、それをリアルタイムな芸能に格上げしたのが立川談志である。そういう意味での功績は歴史上の大名人の誰よりも大きい

落語家としての家元は、イリュージョンという境地を拓いて他の噺家と比較のしようがなくなった。家元の口演する古典落語は彼の境地を理解するための下敷きに過ぎない。「やかん」「芝浜」「粗忽長屋」「落語チャンチャカチャン」……観客にそれなりの落語知識を要求し、なおかつ談志的な解釈の理解を迫る高座は、コアなファンにはたまらなかった。そんなだから独演会は「談志教」のミサであり、客は信者であった。とりわけインテリに受けたのは、談志落語の哲学性だ。「落語は人間の非常識の肯定」という不安定な人間性への視座はWW2前後の欧州文学を読み耽った層には魅力的に映ったことだろう。

っともこういうのは後年のことだ。談志の落語は70年代が全盛のように思われる。源平盛衰記、野晒しといった、やや調子がかった「語り系」の噺は素晴らしい。けれども当時は圓生文楽正蔵といった写実落語が全盛の頃。ライバル志ん朝もその系統で、談志は同じ路線で戦うには不利だった。個性が強すぎて、写実落語を演っても自分自身で障ってしまうのである。イリュージョンは、写実落語と一線を画すために生まれた  というのが私の意見だ。だとすると、「他のやつらと一緒にするな」「やつらは咄家、俺は落語家」というセリフと辻褄が合う気がする。

 

間では「談志と言ったら芝浜」というおもむきがあるが、実際は、ちょっと聞きかじった人でも「それはない」と言うだろう。これは立川流のお弟子さんたちもラジオで言っていた。

私が家元の落語で好きなのを挙げると……

一文惜しみ
鼠穴
子猿七之助
鉄拐
笑い茸

あんまり演る人がいない噺が多い。どれもメリハリや啖呵といった語り口が求められるネタ。職人さんを演るとすごく合う。声のせいかも。

持ちネタは相当多いけれども古典落語をそのまますることはなく、シュールや哲学が混じることが多い。そういうネタは話芸というより談志哲学・談志教義として聞くと非常に面白い。

やかん
粗忽長屋
松曳き


はどんな時に金を出すのだろう。どんな時に金を出してよかったと思うのだろう。
個々の期待値と、それを上回る裏切り。そこに「あッ!」と驚きがあって、喝采が額面になる。ということは、裏切られたと思えるだけの前情報が事前に開示されてないといけない。

立川談志の落語は、立川流という紆余曲折の歴史と、家元談志の強い個性がものすごい前情報となって、いつも過激な期待をされてきた。その期待を叶えたり裏切ったりするのは難しかったことだろう。席を抜いても、観客と裁判になっても、鮫と闘いに行っても、がん会見で煙草を吸っても、ファンにはまだ想定内だった。過激な芸人人生、最期に望む死因は「ふとした病」とジョークめかして言っていたのも、もしかしたら「せめて最後ぐらい安らかに眠りたい」と思っていたのかもしれない。

とはいえ、死後、NHKに「うんこくさい」と言わせようとするなんざ、やはり天才芸人。こればかりは「金を払っても」なかなか演れない芸当だ。

 

 今回は以上です。秋です。寝冷えにご注意ください。

無責任姉妹 3: 機械少年の憂鬱 (さくらノベルス)

無責任姉妹 3: 機械少年の憂鬱

無責任姉妹 4: 孤高少女の放心 (さくらノベルス)

無責任姉妹 4: 孤高少女の放心

3・4を「おもろい」と思ってくれた方か、最近ちょいちょいお買い上げがあるのが1・2コンプ版。ブックウォーカーさんでも人気です。

無責任姉妹 1・2巻コンプ版: 漆田姉妹、跋扈ス。 (さくらノベルス)

無責任姉妹 1・2巻コンプ版: 漆田姉妹、跋扈ス。

無責任落語録(21)「搗屋幸兵衛」

9月10日現在、アマゾンキンドルにて無責任姉妹3と4の無料キャンペーンをやっています。厳密にはプライスマッチだけど。

無料ということは、タダということです。

ぜひDLしてください。もうね、読んでもらった方がね(どうせ売れないからね)、浮かばれますよ。

無責任姉妹 3: 機械少年の憂鬱 (さくらノベルス)

無責任姉妹 3: 機械少年の憂鬱

無責任姉妹 4: 孤高少女の放心 (さくらノベルス)

無責任姉妹 4: 孤高少女の放心

 

さて…

 

突だが、文芸は哲学無しに成り立たない。哲学と言えば、なんちゅうか「」である。終わりがあるという事実が、生をより深く考えさせる気がする。人を描こうとする創作に、死の洞察は不可欠だ  なァんて言うと小生意気だが、まあ文芸に携らなくても人は死ぬし、死んでいく人を見送るのも人生であるからして、誰でも死についてはいろいろ思うわけである。

は、社会によって、時代によって、捉えられ方が様々だ。

私は80年代以前のアメリカンプロレスが大好きで、スーパースターの逸話などを好んで読んだりする。そんな中で昔とあるエピソードを読んでショックを受けたことがある。

日本で力道山が一大旋風を巻き起こしていた頃、アメリカではバディ・ロジャースというレスラーが天井知らずの大人気だった。キザでナルシストだがめちゃくちゃ強い。ダーティーチャンプの家元みたいな人で、元祖ネイチャーボーイである(リック・フレアーは彼の後継者だ)。力道山はこのドル箱レスラー・ロジャースをなんとか日本に呼びたかったようだが、あまりに人気があり過ぎて時間が取れず、結局来日することはなかった。

バディ・ロジャースは71歳で没した。その死因が哀しすぎる。スーパーマーケットで落ちていたクリームチーズに足を滑らせ頭を打って亡くなったのである。華やかの限りを尽くした人生が、どうしてこうもまあトムとジェリーのような最期なのか、無情を感じる。それよりも、このように死に方を公表するのはアメリカでは普通のことなのだろうか。死因は単に「事故死」とだけにして、スーパーだのクリームチーズだの、具体的なことは言わなくても良さそうなものを。そうでなければ、死に方によっては故人の名誉にかかわる気がする。私だったら黙っていて欲しいし、私の身内がそんな死に方をしたとしても、言わないだろうなぁ。アメリカというところは、きっと死についての考え方がドライというか、淡白なんだろう  なんて思ったものだ。戦争ばかりやってる国は、そうなるのかね……?

 

常と死の距離感は、世相に拠る。先の震災で多くの日本人が死について考えさせられた。戦中戦後は生きて帰ることが不名誉とされた頃もあった。どういう時代が良いとか悪いとかではないけれど、時代ごとの死生観を比較するのは文明文化の変遷を知る上でよい学びになると思う。

いにしえの日本を知る手立てとして古典落語を紐解くと、死を扱ったネタをいくつも見つけることができる。一般に古典落語とは御伽衆の時代から明治末までに出来たネタを指すが、そこで扱われる死は、やはり現代とは考え方・感じ方が大分違うんだなと思う部分もあるし、一方で変わらない部分もある。

う部分は、死と日常の近さだ。昔は医療が発達してなかったろうし、疫病や飢饉、天災に見舞われたらひとたまりもなかったろう。きっと日常のすぐそこいらに死がごろごろ転がっていたに違いない。死の登場する落語を一部紹介すると、「粗忽長屋」では行倒れを担いで持ち去ろうとするし、「黄金餅」では焼き上がった死体の腹をほじくって金を手に入れる。「らくだ」では屑屋と熊五郎が死体にカンカン踊りをさせたり髪をむしったりするし、「算段の平兵衛」では人々が死体をたらい回しにする。「ふたなり」や「夢八」なんてのもある。どの話も死体の扱いが随分ぞんざいだ。

むろん、こんなのはぜんぶ作り噺なので、何がどう語られようと大真面目に論じられるべくもない。けれどもじゃあ実際にこういう噺を創作してみろと言われても、死についてだいぶ柔軟というか、身近というか、あっさりとした感覚を持っていなければ、思い浮かばないような気がする。むろん現代の映画やドラマでも死はしばしば表現されているが、死体をどうこうしようという筋立ては、あんまり無い。日頃死体に触れる・接する機会が無いからかもしれない。

 

わらない部分はというと、先のバディ・ロジャースじゃないが、そのあっけなさである。死は誰にも及ぶもの。だが死に方は千差万別。「人ってこんなことでも死んじゃうんだ」そんな儚さが心をヒンヤリさせる。

なかでも搗屋幸兵衛はそれを如実に教えてくれる噺で、狂おしいほど「あちゃあ~」感のあるリアリティを醸す。

搗屋幸兵衛は、端折って云うとこんな噺である。

 長屋の家主・幸兵衛の家に搗米屋がやってきて、空き家を貸してほしいという。幸兵衛は搗米屋と聞いて昔話をする。

 昔、荒物屋をやっている時に人に勧められて、とある姉妹の姉と結婚した。しかしまもなく姉は病に罹り、「のち添えには妹をもらってくれ」と言い残して果てた。幸兵衛は言われたとおりに妹と結婚。ちょうどこの頃、裏に搗米屋が引っ越してきた。

 さて妹は姉以上に器量が良く、家事も万端してくれるので満足していたら、ある時を境に妹は調子が悪くなり枕が上がらなくなった。わけを訊くと「姉さんが妬いている」という。毎日お昼に仏壇を開けて姉の位牌にお供えをし仏壇を閉めるのだが、翌朝開けると位牌がこちらに背を向けているという。あれは姉さんが私を嫌っているからだ。そんな馬鹿な。幸兵衛が確かめると果たして事実であった。不思議だなあと思っているうちに妹はそのことで気を病んで、ついにはこと切れた。

 やれ哀し哉。二人も嫁に先立たれるとは。幸兵衛は妹の位牌を姉の位牌の隣に置いた。昼お供えをして翌朝開ける。すると位牌が二つともこちらに背中を向けている。元に戻して翌朝見ると、やはり反対を向いている。うぬ妹妻の奴、こないだまで同じことで悩んでいたのに、いざ自分が死んだら姉貴と同じことをして俺を困らせるのか…と思っていたが、
「いや、これはきっと近辺の狐狸の仕業に違いない」
 幸兵衛は決意し、仏壇を開けて六尺棒を抱え、寝ずの番をする。夜が来ても、丑三つ時になっても何も起こらない。夜がしらしら明けてくる。隣で搗米屋が起き出して、謡いながら米を搗きだす。

 ドン、ドン……。

 米を搗く振動で、仏壇の中の位牌がズッ…ズッ…と回っていく。ちょうど昼過ぎになると二つの位牌は半回転してこちらに背中を向けた。

 ……はぁ、これが事の真相か。

 幸兵衛は家を借りに来た搗米屋に言葉を浴びせる。
「先の女房は病で死んだが二番目は搗米屋に殺されたも同然!」
「や、その搗米屋と私は違います」
「なんの、同じ商売だッ! 女房の仇ッ!」

「搗屋幸兵衛でございます  
志ん生はあっさり言って切り上げる。通常なら「~という馬鹿馬鹿しいオハナシ~」などと付けそうなものだが。照れるように小首を傾げてお辞儀をする絵が浮かぶようである。

兵衛の登場する「メンドくさい家主」シリーズは「搗屋幸兵衛」以外にもいくつかある。八代文楽の得意とした「小言幸兵衛」、三代金馬の「狂歌家主」「小言念仏」、類似した話に益田太郎冠者作の「かんしゃく」もある。幸兵衛は落語の世界では立役者で、「三十石」では小言幸兵衛長屋中という名乗りさえある。数ある長屋話の中で、幸兵衛はその代表格といえよう。

ところが「搗屋幸兵衛」はなぜかあんまり演じる人がいないようだ。動画共有サイトで見る限り志ん生志ん朝親子が演るばかりで、あとは見えない。まあ噺の構成は正直よくないし、演った割に受けも薄いのかもしれない。これ、逃げ噺に入るのかな?

 

れにしてもこれほど馬鹿馬鹿しい話はあるだろうか。私は数ある落語ネタでキングオブ滑稽譚は間違いなく「搗屋幸兵衛」だと思う。位牌の謎に、幸兵衛も最初のうちは「姉の悋気だ」「妹の妄念だ」「狐狸妖怪の悪戯だ」と、オカルトじみた思いで六尺棒を汗で湿らせる。だが、実際は  人が死ぬ理由なんていくらでもある。想像と現実のギャップに可笑しさがこみ上げる。

振動でモノが動く。これはまあ「ありがち」「思いつきやすい」「ベタ」なトリックと言えよう。隣の搗米屋の振動で位牌がちょびちょび動くのは想像に足る。けれども普通はどう考えても、一つの方向にツツツと進んだり、倒れたり、そんなもんだ。だがこの幸兵衛噺では、位牌が芯を軸に回転する。きっと仏壇の位牌を置くところの板が水平じゃないか、反っているか、ささくれが出ているかして、動くのを制限しているのだろう。それも二つも。私はこの点に妙にリアルを感じる。これは実際に何かが振動で回るのを見た人じゃないと思いつかない話だと思う。昔、テレビのビックリ映像で同じようなのを見た  立体駐車場でサイドブレーキを引かずに停められた車が何かの拍子で勝手に進むのだが、ハンドルが切られたままだったので、くるっと一回転して同じところに戻って停まるという奇跡映像だ。幸兵衛の仏壇の中にも似たような奇跡が起こったのである。滑稽な中にあるこの精緻なリアルさが、搗屋幸兵衛という噺の背骨を保たせているような気がする。

 

違いで死ぬってのは、実際にあるらしい。何かの実験報告をどっかで読んだ。被験者に目隠しをして、足かどっかに冷たい水をポタポタ垂らして、「あなた血が出てます。すごい量です。あと〇分出たら死にます」と言ったら、ちゃあんと〇分後に死んだという。

位牌の動きを気にして死んだ妹は、姉の悋気に苦しめられたという思いはあるわけだ。てことは、搗米屋に殺されたというより、姉に殺された  いや、心のどこかに潜んでいた姉への思いが発露して  。そう考えたら、死ぬ方にも問題があったように思われる。姉の跡目に嫁になることに、やはりどっか後ろめたさがあって、そこにひっかかったんだろう。受け入れちゃいけないな、こういう結婚話は。

この妹さん、素直な人だったには違いない。
でもまあ、死ぬべくして死んだのだろう。
同情はするけど  こんな死に方はしたくないね

   *

以上、お粗末様です。
あ、最初にも言いましたけど、無責任姉妹3・4無料です。取ってって

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