本とともに。
読み終わった。17年前に買ったきり積読の下層を守っていた一冊である。まるっきり意味が分からなかった。すじはわからんし、おもしろくないし、もうだめである。無理して分かろうとするとかえってこばまれ、流し読みするとほんとに流れていってしまう。「読み方が分からないから読めないんだ」と思い、あとがきから読んでみたが、こちらも意味不明。だいたい、あとがきの文章がベケット文体に毒されて、読みづらくってしょうがない。ただもう、読み終わった、それだけである、しかしこれは読み終わったというのだろうか、いや違う、正確には全ページをめくってみた、それだけのことだ。もしこれが分かったという人がいて、その人から説明を聞いても、何も分からないだろう。ていうか、これを読んで何か分かったという人は、きっと分かった気になっているだけで、かえってあぶなっかしい。注意しないといけない。だから、もし自分があとあと何か分かったとしても、人には言わず、胸に秘めておくのがいいかもしれない。
と、一生懸命ベケット調を取り入れて、書評おわりw
ぼくは日本語でしか読んでないし、それ以外の言語で読むこともできないが、原語でもやっぱり読みづらいのだろうか、そして、原語圏の人はこれをどうとらえているのだろうか。
以上、さんざん言いましたが、「ゴドーを待ちながら」よりは好きですよ。
さて、昔ベケット先生「モロイ」にあこがれて書いたものが、拙の短編集におさめられています。
二番目の「キートゥーザーハイウェー」がそれである。まあ、好きではあるのだ、このスタイルは。
あとがきの該当部分を。
二〇〇三年頃、当時サミュエル・ベケットの文体(邦訳)に憧れ、無改行の作品ばかり書き、所属していた文芸同好会の同人を辟易させておりました。こんにち巷には「ハルキモドキ」の同人が氾濫していますが、おそらく彼らも周囲を辟易させていることでしょう。芸事はしばしば真似から入ると言いますけど、その周辺には多くの「迷惑」がほとばしっているもの。まさに古典落語「寝床」の状態です。そして、えてして真似は真似を超えないものです。
自分の作品の宣伝を、ベケット大先生の感想より長々とやりまして、おひらき。