落語家・五代古今亭志ん生の随想や対談をあつめた本の、次の箇所です。
十八番の“火炎太鼓”
しかし、やはり師匠が寄席にお出になりますと、大向こうから“火炎太鼓”という声がかかるでしょう。
志ん生 それはそうです。やってくれといっても、やったことはない。その人はそれがいいかもしれないけれども、ほかの人はどれがいいかわからないですからね。その人のいうことだけきくわけにはいかないですよ。だから、とにかくまかしてくれと、自分でやるようになっちゃうですね。中にはそういわれるとやる人があるけれども、私はそれがきらいなんです。
まあ、座敷に呼んでくれて、これが聞きたいといわれれば、やりますよ。ですけれども、そうでないときは、大ぜいの人が聞いているのでしょう。それを押さえちゃうだけのその人に権利はないのだ。皆同じ料金を出してきているのだから……(笑)だから、私はやらないのです。
それで師匠、たとえば席亭と、ラジオ、テレビ、お座敷と、どこが一番はなしいいですか。
志ん生 まあ、やはり、何か特殊の研究会だとか、三越の落語会だとか、東宝とかいうところはやりいいですね。あとはみな大衆で、いろいろな人が来ていますからね。だから、少い客に何するよりか、大ぜいに向くようなことをしゃべっちゃうよりしようがないのですよ。だから、芸術というものはやれはしませんし営業ですわね(笑)
眼目は最後のところで、芸事のうち芸術性と大衆性の両面を持ち合わせているものは、えてしてこういうことがあると思う。
さらに志ん生はこうも云っている。
芸人は芸と人気の両方が一緒になってあがってこなくちゃ……芸ばかしでもいけないし、人気ばかしでもいけません(同書)
これは難しい。
人間どっちかによっかかりたくなるもの。しかしそんな気分が微塵にでも心に去来している時は、すでに精進にムラが起きているような気がする。小説の場合で言うと、「これウケるかな?」「賞の毛色と合ってるかな?」と人気のすじばかり追っかけたり、かと思うと「いや、私はこれを書きたいのだッ! 分からん奴は置いてく!」と意地を張ってみたり。このふたつは両極端のようでいて、じつは根っこの部分でつながって、シーソーみたいに揺れている。
芸に逃げたり、人気に走ったりせず、ただひたすらそれをやってるのが好き そんな精進をしたいものです。
- 作者: 古今亭志ん生
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2012/02/04
- メディア: 文庫
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