アヲイ報◆愚痴とか落語とか小説とか。

創作に許しを求める私の瓦斯抜きブログ

無責任落語録(13)「ガーコン」

ヲイという名前で活動し始めてちょうど一年くらい経つ。作品はKDPで「無責任姉妹」しか出しておらず、この道では新米も新米である。

といっても趣味で小説を書き始めてからの年数は、恥ずかしいくらい長い。もともと「本にする」「賞を獲る」「有名になる」という願望が小さかったから、チカラがつかなかったのかもしれないが、ま、それなりに文章については考えてきたつもりである。同様に読書もした。

最初のうち  学生の頃は、有名な、教科書に載っているような古典を読んだ。目が活字に慣れてくると哲学や宗教など人文学的なものに手を出した。いわゆる「王道」モノである。その頃は、趣味とはいえ文章を書くのならそういうものに触れておくことが当然の素養だったし、さもなければ読書仲間や物書き仲間から「無学の輩」と思われかねなかった。*1

時代が変わったのか、自分が年を取ったのか。

最近は周囲にそういう風潮はないし、私自身結構融通が利くようになってきた。つまり、対象が王道・主流じゃなくても、「いいものはいい」と言うことにためらいが無くなった。若い時分は仲間との会話のために、分かりもしない「王道」を称えていたフシがある。今は違う。これまで長きにわたり根暗で神経質な私小説的な文章を書き続けてきたが、ライトノベル的なジャンルも面白そうだと思って、それを否定しなかった  それが「無責任姉妹」になった。単純に純粋に、楽しく書けて、それでいい。

転向か変節か。はたまた堕落か落伍か。

かつての自分だったらそう言ったかもしれない。

 

外な発見もある。自分が愛好して書いていたのと違うジャンルを扱うことで、創作そのものについて広範な感覚が磨かれた気がする。それは文章のタイプだとか描写の云々とか、小手先の話じゃない。ものの考え方というか、切り取り方というか、そういうことだ。いま私がフリーで文字を綴って綱渡りながら生きながらえておられるのは、ひとえにそういう学びに依るところが大きい。こういう仕事はえてして「こだわりが大事」とか言うけれど、私は「こだわらないことにこだわる」ことにしている。何か型を決めたらその瞬間、進歩は阻まれる。

もっとも決めた方が神経的にはラクだけどね。

 

道と言えば  
落語には名人上手の名が残っていて、ネタも江戸時代から愛され続けている作品がある。落語と虫の合った人が、趣味が高じていろんなテープなどを聴きかじっていくと、徐々に神経が落語の側に回ってくる。やがて「おれは志ん生文楽しか聞かない」「わたしは古典落語オンリー」という風に、いわゆる王道ばかりになる。別に悪いとは言わない。だが、きちんと味わえば新作落語も面白いし、大名人じゃなくても豊かな芸人はたくさんいるわけで、王道オンリーだと落語を半分しか楽しんでいないようなもの。落語を楽しみ尽くそうと思ったら、何でもかんでも聞いてみるべきだと思う。すると、次回王道を聴いた時に、以前と違った豊かさに出会えるだろう。

 

んな王道かぶれにおすすめしたいのが「ガーコン」である。
詳しいことは書かない。動画共有サイトなどで観てください(いや、是非寄席で観てください)。

落語好きを自認する人の中にも「ガーコン」を知らない人は多いだろう。
なんせTVではまずかからない。演じるのはこの噺の制作者である川柳川柳(かわやなぎ・せんりゅう)師匠のみ。御年85歳。もう40年近く、ほとんどこればかりを演られているという。持ちネタのほとんどが下ネタ系。メチャクチャ声がいい。落語は抜群。六代目圓生の弟子である。下手なわけが無い。

「ガーコン」は不思議だ。そもそも「ガーコン」は落語なのか。

最後に座布団の上に立ち上がるのは落語教に反するのではないのか  。いや「ガーコン」はむしろ現代の音曲噺だ。反戦落語にも聞こえるし、近現代の文化を落語にのせて語っている様にも思える。珍芸・物まね芸にも思える。だが、ただの漫談と言えば漫談だ。

川柳師匠の芸力の凄さを抜いて語れないが、事実このように「ガーコン」は落語と言うにはあまりにも多くのものを包括している。ゆえに落語に見えない・聞こえないことがしばしばだ。だがよく分析すると、演芸の主流に通じる要素がいくらもある。

座布団の上に立ってみたり、歌を唄うのは、かつての道具立て芝居話では当たり前のようにあったろうし、口三味線は古典の「祇園会」を髣髴とさせる。物まねは寄席の出し物ではよくある。一連の軍歌や戦後ジャズ文化については、もはや歴史の語り部的な役割を担っていると思う。

の様々な演芸に無くて、ガーコンにだけあるものが一つある。それは「ガーコン」の巻き起こす「笑い」のタイプだ。

馬鹿笑いでもなく、失笑でもなく、ブラックユーモアでもなく、皮肉な笑いでもない。ガーコンの醸す笑いは、どんな王道落語にもない、低いがとてもはっきりした可笑しみがある。それはとても文化的で、心地良い笑いである。なんと例えようもないが、その時隣に誰かいたら知らない人でも目をあわせ、軽く「フフ」と交わせるような笑い。

だから「ガーコン」はやっぱり寄席がいい。

    *

りとめもなく長くなりましたが、つまり私が言いたいのは、王道とか主流なんてのは、あるのかないのか分からないけど、ほんとうにその道が好きだったら、そんなものはとっぱらって、ありのままを正しく見つめるのが大事じゃないか、ということです。

学園コメディ 無責任姉妹 1・2巻コンプ版: 漆田姉妹、跋扈ス。 (さくらノベルス)

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*1:当時「若者の活字離れ」は大人の常套句だった。若者の間で人文趣味はマイノリティーであり、学生同人はいつも小さく寄り集まり、周囲からの変人扱いの視線に耐えていた。よって性根の部分が歪みきり、排他的傾向があった(もっとも自分の周りだけだったかもしれんけど)。人文趣味に奔らざるを得ないような偏屈漢は、一般の間に放り出されたって価値観を共有できず、コンプレックスを抱いて生きる以外にない(私もそのクチだった)。だから仲間からはずれないように、読むべき本は読んでいたというわけである。

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