ごくたまに、地元の映像制作のお仕事の手伝いをする。どっかの会社のコマーシャルや案内ビデオといった映像作品の、企画やナレーション原稿を制作するのだ。もともとそういう業界に長くいた。それで地元プロダクションの方が何かの拍子に私の存在を思い出して「あーそうだ。あいつに頼もう。きっとヒマだから」と、お声を掛けてくださるのである。そんなんだから、ほぼ間違いなく低予算(下手すると無予算)だ。でも、思い出して呼んでくれるなんて、日頃人と会わない淋しがり屋の私の自意識は、いやがうえにも盛り上がるし、しかもロケなんかに同行することもあるので気分転換になる。お弁当が出たりするしね。
しかし何より、私が映像のお仕事に取り組む最大のメリットは、いつもと違う媒体で仕事できるということだ。
私は毎日文章を書いている。紙なりWEBなりに文字を並べ、読まれるための原稿を書いている。ところが映像の場合、基本的に耳で聴かれるための原稿を書くことになる。この違いは非常に大きい。こういう違いを折々に体験しておくことは、大きな学びになるのである。
たとえばこんなことに気付く。
1)訓読み推し
日本語は同音異義語が非常に多い。音読みは特にそうなので、なるべく訓読みベースの原稿にする。
極端な例を出そう。
少将は少々苛立って「時期尚早」と言った。
→読ませ文では十分理解できるが、聴かせ文では「ショーショー」と、いつぞやのカルト教祖の歌みたいだ。
少将は眉を潜め「まだ早い」と言った。
→読ませ文とはイメージが異なってしまうが、耳通りは良く情報伝達リスクが少ない。
ちなみにナレーターさんの言うには、ナレーションの冒頭はカ行かタ行が発音しやすいそうだ。たしかにサ行は掠れるし、マ行はリップ音が入りやすい(と言いつつ例文に「しょうしょう」をチョイスしている私……)。
2)センテンス
日本語は最後まで聞かないと文意が決まらない。主語と述語の距離が離れすぎると読み手の記憶負荷が大きくなり、良質な理解を妨げる。
極端な例を出そう。
いいか。美濃部、並河、山崎、小林、麹池は来なくていいぞ!
→所謂「ながら聴取」をされた場合、後から「え? 俺って呼ばれたっけ?」とか「俺って行く方? 行かない方?」となることがある。これが書かれた文章なら戻って読めるので問題ないんだけど。
いいか。今から呼ぶ者は来なくていいぞ! 美濃部、並河、山崎……
→これが正解だ。
映像ではこういった注意が必要だ。また、言葉だけじゃなく撮影編集作業にも、カメラアングルやカットのつなぎなど、小説づくりにモロに活かせるノウハウがあふれている。かといって、映像表現メソッドを過剰に小説作法にぶっこむと、視覚描写だらけの極めてつまらない作品ができあがる。
世間ではしばしば「話し言葉」「書き言葉」という風に文章論が語られることが多い。それはそれで大事なんだが、どうしても発する側寄りの方法論だ。やはり受け手側に立って「読ませ言葉」「聞かせ言葉」という風に考える方が、人にやさしいテキストづくりにつながると思う。
以上です。
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