世間はバレンタインデーというものらしい。
と、いかにも関心の無さそうな伝聞形で言っているが、実際は真っ直ぐ受け止められる勇気も実績も希望もないから目を逸らしているというのが、ホントのトコロである。
誰なんだよこういう日を決めたのは。
チョコレート会社の仕業だということは先刻承知だ。
言いたいのはそういうことじゃなくて、格差があからさまに見えてしまうようなシチュエーションをどうしてこう大々的にやるのかということだ。経済に収穫逓増の法則というものがある。「持てる者はますます富む」というやつだ。
思い返せば、もらえる奴はいっぱいもらっていた。小学校の頃は足の速い子。中学では中性的な子。高校ではイケメン。大学でもイケメン。社会に出ると職種とイケメン。ちょっと経つと年収とイケメン。戸籍にバツがつき出すと箔がついて尚良し。
私としたことが、見事にどれもこれも外れていたし、今も外れている。
先輩、これ食べきれないんで。
そういってチョコ持ってくる奴がいる。
これが男だったら「コロスぞ、こら。」
でも女の子だったら、まこと意地らしい義理であることだなあ、いや、もしや……と、妄想を一段深くする。
偏差値教育・点数社会で育てられた私は、チョコレートの多寡で優劣が決まっちゃうような気がする。頂戴するチョコレートには本命とか義理とかあるのだろうけれど、義理だからって少ないのは寂しいし、「本命が一個あればいいや」なんて言っている奴だって、道義的に言っているだけで、いっぱいもらったらやっぱり嬉しいに決まってる。
でもほら、お返しとかあるから。
わかるよ。わかりますよ。全然もらわん私にはお返しも何もないから、そんなの引き合いに出されても困るのである。
どうしてこうも日本人はサカってるのかね。
そんな風に考えてたら、一年のイベントがぜ~んぶ恋模様に見えてくる。
2月バレンタインデーで女の子の気持ちが送られ、3月ホワイトデーで男の気持ちが確かめられ、初夏をデートで順調に過ごした後、お盆に彼氏のご両親と顔がつながる。
秋行楽の頃、スポーツだ食欲だ読書だとかこつけて逢瀬を重ね、クリスマスに急展開。初詣で彼女の両親と顔がつながり、一月二月はコタツで双頭の蝸牛。ところが三月、辞令が下りて、四月転勤でどっか遠くへ飛ばされて、すっかりさっぱり別れちまえ。
最後の最後で、ちょっと感情的になってしまった。
すみませんでした。ごめんなさい(棒)
さて、無責任姉妹の3を書き始めた。いや、語弊がある。「構想を練り始めた」というのが正しい。こないだ友達とちょっと雑談してたら「高校の頃、バレンタインどんな風だった?」と聞かれたのが引き金だ。イケメン役をまたずたずたにしてやろうかなと思ったりしている今日この頃である。