私(アヲイ)が入った大学には文芸部がありませんでした。
それで大学二年の時、同志と共に文芸同好会を設立しました。
それが私の小説を書くという営みの始まりです 。
かれこれ十ン年前の話である。
古い教授に聞いたところ、その大学にもかつては文芸部があったという。
その部は、私が同志と文芸同好会を設立するだいぶ前になくなったのだそうだ。
なぜなくなったのかというと、70年代初頭、関係する人が外国で何かとんでもないことをしたのだとのこと。コワいネ。
当時の学生というか若者は、非常に熱かったのだそうだ。
大学サークルにおいて、新聞部・自治会・マルクス研究会・文芸部のようなイデオロギーの温床になりやすい部は、とりわけ活況だったという。一連の安保闘争や左翼過激派の跋扈は、団塊の世代がいまなお自慢げに物語るノスタルジートピックのナンバーワンだ。この飽きっぽい世代が、川柳川柳師匠の「ガーコン」ばりに同じことを何十年経っても語ってるくらいだから、当時の若者はよっぽど燃えに燃えていたのだろう。
仮にその頃、今のように自由な電子パブリッシュの手段があったら、政治意見の著述なんかが怒涛の勢いで公開されていたに違いない。大学ごとに、サークルごとに、役員ごとにバシバシ出たことだろう。共同幻想論みたいな本がいっぱい生まれていたに違いない。
そういうことを念頭に置いて考えるに
私が知らないだけなのかもしれないが、こんにちKDPやKWL、BWなどでたくさんの電子書籍が販売されている中、そういった政治思想系の書籍は、思いのほか少ないなと感じている。
ほとんどがミステリーやファンタジー、学園ラブコメといったエンターテイメント系読み物(他人のことは言えないのだが)。そういうのが「これでもかッ」というくらい日々公開されている。
個々の人間が個々の作品を紡ぐにあたり、意図があることは明白だ。金、名声、浄化、現実逃避、供養、自慰、自傷 etc……。
だが、これだけ多くの公開物がある中で、イデオロギー系の作品がかくも少ないという状況は、一体どういうわけだろう。
ここまでくると、集団的自制心が働いているとしか思えない。
たとえばある昼下がり「よし、イッチョ政治意見を著そう」と思った瞬間、何らかの摂理が働いて、現実とは無縁な異世界を書きたくなるとか。あるいは自制などではなく、真に顕現した暗示で……だとすると、私たちは、夥しい数の異世界転生最強ニートの主人公に、チートなツンデレヒロインたちによってハーレムされる主人公に、一つの未来の着地点を探しているのだろうか?
(おい。まて。書くために書かれた作品と、読ませるために書かれた作品には、根本的に違いがあるべ。だから多くの電子sy)
シッ!
民衆の潜在的な欲求が昇華して大衆文芸が生まれ、その大衆文芸が拡散・多義解釈されて世論が生まれ、世論がやがて国家の理想にまで高まる 私にはそんなイメージがある。
なにもそこまで行かずとも、古の西鶴や馬琴を顧みれば、現代のエンタメの隆盛も、単なる野放図と言い切るにはちと乱暴だ。
どんな創作も、時代の要請によって生まれたものだと、思う。思いたい……のである。
あれ。話の収集がつかなくなってきた。
このへんにしとこう。
さて、最後に。
日本の左翼闘争で活躍した「鋼鉄の拳」をご存知だろうか。
安田講堂を脅かし、浅間山荘を潰えしめた、あのクレーン鉄球。
無責任姉妹はあの鉄球をリスペクトし、だいぶライトなテイストで登場させています(リスペクトはあくまで「鉄球」です。反左のリスペクトというわけではありません)。
2巻です。カップ○―ドルも、ね。