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創作に許しを求める私の瓦斯抜きブログ

無責任落語録(50)「三遊亭兼好独演会」観覧記

 

題の興行が2024年5月26日(日)に鹿児島市の黎明館で催された。主催は落語を愉しむ会。『ゆるいと亭』様のお席である。

同日同館は鹿児島県美術協会「第70回県美展」の最終日で、県民いっぱいのお運び。そちらを拝観し、友人知人の作品をいくつか見せていただいたあと、独演会の会場に入った。

事前にSNSで完売御礼と伝えられていた通り、席はびっちり。なんだかいつもより会場が重く感じられたのは、人数のせいだけじゃなく、黒髪頭の割合が増えたからじゃないかと思う。いつもは白髪頭が多いだけに。若いお客が増えた模様だ。

ゆるいと亭さんは15周年。毎回顔づけがよく、木戸銭もお安い。間違いなく市中の人気席である。席亭のあいさつも、いつもとっても感じが良い。おちゃめでかわいらしい。

 

て高座を振り返る。

▼一席目「蛇含草

自己紹介とご挨拶を兼ねた枕は、出だしからバンバン受けていた。テンポが速いが聞きやすい。ところどころ風刺が効いて「フフ」となる。好楽師匠が自分の公演の楽屋入りで一般人に間違えられたエピソードは大ウケだった。

これがつぼになったのか、以来、この日のお客さんは終始大いに笑っていた。最後あたり、キンキンした声を立てて笑う人もいた。実際ウケているのだが、それ以上に、そういう気(け)のお客さんが多かったんだと思う。いいことです。みんな免疫力が上がって寿命が延びた。

さて本題。八つぁん(熊だったか?)が隠居宅を訪れ、蛇含草をもらうくだりののち、餅を50個喰う展開に。その時の食べ方の形態模写が秀逸で、繰り返されてもくどく感じず、むしろずっと見ていたいくらいだった。焼き立てアツアツの餅をヤケドしないように右左の手で素早く持ちかえる仕草。手と顔の動きで餅が柔らかく伸びているように見せる技術。みごとである。


▼二席目「たがや

夏には早いが花火の噺。最初に掛け声について。「たまや」「かぎや」の花火の掛け声。歌舞伎・落語の掛け声。歌舞伎は屋号だが、落語の場合は師匠の住まいや、やってほしいネタを叫ぶという。志ん朝「矢来町!」など。
志ん生のが「日暮里たっぷり!」というのは初めて知った。

噺は徐々にネタの核心に近づいていく。花火の本来の楽しみ方として、お大尽が芸者と差しつ差されつするシーンを解説する仕方噺が非常に良かった。屋形船が夜の川面を滑っていく柔らかな水くぐる音が聞こえるようであった。

「たがや」がはじまり、トントンと噺が進んでいく。かなり早く進められるので、「これは何かあるな」と思っていたら、やはり。

最後のくだりで、現実エピソードがたびたび挿入されるという奇策が演じられた。剣難に遭うたがやに危機が迫ると「実はうちもそうなんですよ。昔、うちのおじいさんが」「おばあさんが」「妻が」といった具合で、何かあると唐突にエピソードが差し込まれる。これが4つくらいあった。

これに関しては、たがやという噺のいよいよ緊張が募っていく流れを、いちいち断ち切ってしまうようで、かえって如何なものかと思った。挿まれるエピソードが面白いだけに、余計それを感じられた。

 

<仲入り>
ゆるいと亭15周年抽選会で、師匠のイラスト入り直筆サインをいただきました。家宝です。


▼三席目「崇徳院

冒頭、「長くやりません。短くやります。あんまり長いとマイク切られるので」と、ちょっと前の環境省の対応問題に関する風刺があって、会場がドカッと受けた。この日のお客さんは先述したようによく笑ったが、それだけでなく、みな時事ネタへの反応が異様に早かった。師匠が口の端にちょろっとこぼしたようなことにも、即座に反応していた。ぼくなんぞはちょっと経ってから「ああ、あのことか」と。頭の回転のいいお客様。よく気付きよく笑う。

さて「崇徳院」。仲入り前からの流れを考えたら、意外なネタが来たと思った。「たがや」がアレンジたっぷりだったので、今回もそう来るかなと思った。きっとオリジナリティあふれる半創作的落語になるのでは?と。

ところが、あっさりおわった。なにかこう、普通に演じられて普通に終わった。「え? もう終わり?」感が強かった。宣言通り本当に短くやった感じだ。

しかし確かめると、しっかり45分語られていた。つまり「短く感じるくらい素晴らしかった」と言える。ぼくは飽きっぽいので、だいたいにおいて途中で時計を見てしまう。それがこの「崇徳院」は一度もなかった。のめり込んで聞いていました。

 

上三席、枕を含めて振りかえると、話の軽妙さ、口跡、感情移入。何もかもすばらしい。ちらっとのぞく毒がよい。一席目の餅喰いの仕草、二席目の仕方噺など、スペクタクルな見せ場に強く惹きつけられた。ただ、三席目はそういったものが無かっただけに、ぼくには弱く感じられた……かもしれない。

登場人物のデフォルメと現代的なエンコードの効いた「いま風の人気噺家」らしい噺家さんの一人だと思った。もっとも、たがやの枕で演じられた芸者や、崇徳院の若旦那のつやのある仕方を考えると、繊細な造形もたのもしく、女性の出てくる噺なんかは相性がよさそうだ。「紙入れ」なんかを見せていただきたいと思った。

 

オチケン

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試論

 コンピューターの進歩により、人間が脳筋に力を込めて物事を考えなければならない状況が減っています。とにかくIT利用が拡大している。インターネットやAIの恩恵です。くわえて、SNSでおびただしい量の情報が拡散されている。よく「経済がインフレしている」なんて言われますが、実は最もインフレしているのは「情報」でしょう。情報は、素早く・広範に・他情報との関連(ハイパーリンク)と合わせて伝わるようになりました。「一昔前より」なんて悠長なレベルではありません。きのうよりきょう、きょうよりあすは、もっと情報インフレが進んでいます。

 そんな環境下では、人々が情報に価値を感じなくなって当然かもしれません。人間が思考して何らかの情報体系を構築する、あるいは情報の価値を思考によって認識しなおす――これらの行動を人間の頭脳がやるのを、人はもはや不合理と感じるのです。コンピューターにやらせた方が、早いし確実だし、楽なのです。

 この便益の弊害として、情報の価値判断についての人間の認知能力が弱体化することが挙げられるでしょう。人はいつしか軽い刺激で過剰反応するようになりました。その舞台は主にネットで、炎上という形をとって顕現します。マイノリティーへの政治的姿勢やイデオロギーの違いに敏感に反応する様子を見ていると、社会全般がヘイトを生み出しやすい性情となっているなあと思います。これほどまでに敏感で攻撃的になったのは、ひとえに「深く考えることをしなくなったから」だと、私は思うのです。なぜなら、彼らにとってそれは不合理だからです。不合理を強いられる時、人は強い不快を感じるものです。そしてそれを見せつけられる時も。

――いや、やはり、全然考えないとまでは言いますまい。ただ、人の機微、すなわち心の襞の影なる部分に思いをいたすことが億劫になり、それを長らくしないがゆえに、影なる部分に想像力を働かすことも、それが想像の対象であることも認識できなくなっている――そういう状態なのではないかと思ってやまぬのです。

 それでも一部の人々は、専門的(あるいは偏執狂的)に思考して、意見を発信するのでしょう。だが、大衆はというと、考えること自体を馬鹿馬鹿しく感じ、諦観と無関心に満ち満ちている。馬鹿馬鹿しいことに執拗にこだわって自己主張を発信する他人を見ては、「合理を弁えぬ愚かしい生き物」と唾棄せんばかりに苛立つ。その憎悪を解剖すれば、成分の半分以上は嫉妬だったりするのですが。

 とにかくそんなことだから、人は日常的に積極思考を行わなくなり、必然的に自身の力で言葉を活用しなくなるので、他人に文章を任さねばならなくなるのです。

試論

 凝り性というのは、凡庸なる人がクリエイティブワークで生きていく際に、唯一の武器たりうると思います。

 グラフィックの世界の突出した人々の仕事を見ると、一般人にはおよそ及びもつかぬ至高の天分が与えられているように思います。たとえば線を1本引いただけで、すでにデザインになって見えます。その線をじっと観察すると、太さや筆圧、角度、エッジの摩滅具合といったものが、見事な調和を顕現しています。その秘訣は、おそらく、どこを見て描いたか、腕の筋肉のどこを使ったか、息を吸って描いたのか、吐いて描いたのか――等々、おびただしい要因が、まるで宇宙の天体が十文字に並んだみたいに奇跡的に重なっているのでしょう。しかも彼らは、その奇跡をまるで呼吸するように当たり前にやってのけるのです。天才ってやつです。アートに限らずスポーツなんかにも、そういう人がいますね。

 達人の技芸について以上のような説明をすると、「それはお前がそういう人たちの努力を想像できないだけだよ」と、いわゆる「思考停止(浅薄ゆえに他人の優越をつい『才能』と呼んでしまう人のあるある)」のように思われるかもしれませんが、実際に天才芸を目の当たりにすると、そうとしか言いようがないものです。

 さて、ローカル広告の商業アートにおいて、マーケットにもし斯様な天才がいたら、同町の凡庸なデザイン担当は、嫌でも彼らと伍していかなければなりません。いかなる戦術があるかというと、やれることはただ1つ。まずいなりにとにかく作り込みを徹底する。めちゃくちゃ手の込んだ、非常に細かい手仕事を膨大な量こなす。いわゆる力ワザ。これしかありません。描きだす線が凡庸極まりなかったとしても、血飛沫の飛び散るような力ワザを繰り出せば、見る人に一瞬息を飲ませることができます。そう、一瞬でいいんです。それはインパクトという側面において、天才肌アーティストの仕事を超えることがあります。美しいとかキレイとかじゃなく、乱暴に記憶に残す、刻み込む、そういう手法です。それがクライアントの目に留まり、次の仕事につながっていくということもあるのです。

 圧倒的な作り込みをしつづける力ワザのビジネススタイルは、一筆描きで心を惹きつける真性アーティストの仕事と比べると、労働効率的にめちゃくちゃコスパは悪いです。しかし、作り込み系の作業というのは、それなりにコツがあって、何度も何度もやっていると、手が早くなってきます。力ワザでこなせる仕事の幅が見えてくれば、その中で見せ方も増えていきます。そうやって凡庸なデザイナーが徐々に普通よりちょっとできるアーティストに変わっていく――これが確かな再現性を持つプロデザイナーの成長プロセスだと思います。

 このやり方、いわゆる作り込みとは、自分の中に一つの理想を措定し、自分の技量をそこに限りなく寄せていく作業であり、性格的に必要な特性は、まさに「凝り性」でしょう。自分が「凝れてる!」と納得できる技芸を追い求める連続において、少しずつ、でも確実に良い仕事に近づけていく――そうしないと気持ち悪くてしょうがない――とまあ、当人としてはいつまで経っても心の落ち着かない、一種の業病のような性情なんです。

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