アヲイ報◆愚痴とか落語とか小説とか。

創作に許しを求める私の瓦斯抜きブログ

銭湯戯画『オンセンサン』初の展示会・開催決定のお知らせ

 

ことに喜ばしきことに表題の件が決定したのであります。開催地はわたくしの地元・鹿児島市です。あ、航空機のチケットを取るのはひとまず以下全文読んでからにしてください。

展示会の具体的な内容に触れる前に、ちょっと言わせていただきたい。

まさか人生で個展をやらせてもらえるなんて、想像だにしていなかったから、大変光栄でうれしい限りである。が、ある一点において、ヒジョーに悩ましい思いを抱いている。

というのは、この展示会はタイトルにぼくの本名を冠しているのである。

これまでは何をするにも“小林アヲイ”という名前で作文やら温泉画やらを披露してきた。だが、今回は違い、“中の人”が出ますよ、と。そのことがぼくになんともいえぬ落ち着かない感じを与えるのである。

普段から本名で活動している人にしてみれば「は? だから何?」ってなもんでしょう。
当人が意識するほど周囲は気にしやしないのも間違いない。

とはいえ、こちらとしてはずっと小林だっただけに、いざ本名で出るとなると、何か不思議な感じがするし、本名というのは普段から名乗らずにいると妙に照れくさい。「小林は遊びの名前。本名は役場や病院で呼ばれる名前」というような、へんてこりんな習慣がこびりついてしまってることに原因があるのかもしれない。

 

にぼくは秘密主義的に本名を伏せるためにペンネームを名乗ってるわけではない。名前というものも、一つの表現であると思っているのである。
ブーバキキ効果」ってのがあるでしょう?

作者の名前の音韻的字面的な印象は、作品そのものの印象に影響を与えうるのではないかと、思うのである。

たとえば、お座敷遊びをするにあたり、二人の芸者のどちらかを呼べるとして、一方を「富士奴(ふじやっこ)」、もう一方を「太夫(いもだゆう)」だったとすると、名前だけ聞く限り、やっぱ前者をお呼びしたいじゃん。

つまり、“小林アヲイ”という名前も、一定程度の好印象獲得をはかった名前なのです(少なくとも本名よりは)。うまく作用しているかは分からんけど。

 

とはいえ、ペンネームについちゃあ、以前に地元文学賞でテレビカメラを向けられた時、「うへえ」と思ったことがあった。小林アヲイという名前で中年のおっさん顔をメディアにさらすのは滑稽な具合になるのではないかと、おぞけが走ったものだ。落選してお蔵入りになったからよかったものの、なにかこう、自分におけるPNの限界を感じたのは事実である。

 

にせよ、今回の展示会でぼくの本名はオープンになる。これは確定事項である。自分で主催者様に「こうしてください」と願い出て決めたことだ。

しかしそれは地元レベルの話であって、日本全体ワールドワイドなWEB上ではまだ本名を晒したことがないから……。

いまさらごちゃごちゃ言ってどうする小林。別に後ろめたいことがあるわけじゃなし、むしろ光栄でよいことだ。

ツイッター上でも、今回の件に限っては、本名をフルオープンで堂々と告知しようじゃないのさ。

はい。

 

 
 
 
 
 
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しかし考えてみれば、たいへんにありふれていて、個人を特定しづらい名前かもしれんね。むしろ偽名を疑われるレベル。

記事を読み返してみると、告知なのかペンネーム論なのかよく分からんことになっているな。展示会直前になったら、また告知をいたします。この期間に鹿児島に来る予定のある方、ない方、どうぞよろしくご贔屓のほどm(_ _)m

 

▼小説の方もよろしゅう。

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読め。

 

ずっと勘違いしていたこと

月になり、温かくなってきたので、変な人が増えている。
永久に冬の国のドンが世界中に喧嘩を売っている。
株価は乱高下を繰り返し、首相は「しっかりと」「適切に」の2語を連呼している。
いつものようでいて、毎年確実に少しずつ違う三月。
ぼくは午後からコロナのワクチンを打つことになっているので、そういったすべての風景が惜しまれるような気がしてならない。
ああ、惜別。
今この瞬間も、今この瞬間だ。

そういうわけだから、ぼくは反省し、罰として今日は、ぼくが長いこと勘違いしていた、とある事物について告白する。

 

それはコメンテータだ。

テレビのコメンテータは、みんなに嫌われている。
ぼくのよくいく居酒屋のカウンターでおっさんたち(定年貴族)が言うには、

コメンテータは専門家でもないくせに知ったようなことをいっている。奴らはツイッターとユーチューブの再生数を上げるためにテレビで派手なことを言っているのだ。

 

ぼくは別にいいではないかと思う。

しかしコメンテータ批判はリアルにもネットにも、いたるところで言われている。
噂に敏感なはずの当のコメンテータたちは「これはまずいな」とか思わないのだろうか。
テレビ局も、きらわれコメンテータを出演させ続けることをまずいとは思わないのか。
世にひろまるコメンテータ批判がほんとに的を射たものなら、彼奴らがメディアに出続けていること自体国家の害悪で、国益を損なうものだから排除すべきではないのか。

こう考えると、コメンテータを野放しにしておくことは、やばいことなんじゃないかと思わないでもない。

 

  と、これがぼくの勘違いである。

 

実際のところ、コメンテータは嫌われることに役割があるのではないか、とぼくは気付いた。

コメンテータのコメントなんてのは、人知れず散り落ちた枯れ葉同様で、乾いた風にあおられてドブに落ちて消えるモノ。仮にホントに正しくて大事なことを言ったとしても、情報の波に流されてスルーされ、あとから見い出されても大して称賛はされない。

重要なのは、蛇蝎のごとく嫌われたコメンテータ自身の存在である。

正しいことをいうコメンテータなんて、むしろ鼻につくのだ。

だって、ぼくが居酒屋のカウンタで見るコメンテータ批判は、嬉々として行われているのだもの。

あいつ、若造のくせに何様さ

あいつは何も分かっていない

そう文句を垂れるおっさん方は、このあと、さも有識者ぶってご高説をたまわる。
その内容は、コメンテータの言ってることとさして変わらない、へたくそなレトリックが絡みついた分だけみっともないものだけど、嗚呼、おっさん方のなんとも幸せそうな顔よ。

会社を定年して空威張りをする先がなくなった彼らは、テレビに出ているニワカ専門家をけなすことで、自分の居場所を見つけているのだ。
コメンテータはガス抜きであり、スケープゴートであり、高齢者の精神的な福祉なのだ。

実に結構ではないか。

ぼくもこの件については自分がコメンテータになれやせんかと思うところである。

   *

勘違いについて、実はほかにも書きたいことがある。今、手元のメモには、「小説」「体育嫌い」「据え膳食わぬは男の恥」とある。これらについて、ぼくは勘違いし、あるいは勘違いしたままでいたことを認め、またあるいは勘違いのままでいいと思っている。
そのうち書くと思う。書かないとも思う。
じゃあ。

グーグル広告はすごいな(唖然)

ーグル広告はすごいな。ちょっと前に手を出し、難しくてめんどくさくて分かりにくいので放置していたのだが、このたび二年ぶりくらいにアクセスしたら、ほぼAI化されて、金さえつぎ込めばなんにもやらなくても広告出稿できるようになっていた。

具体的にどうすごいかというと、グーグル広告に披露めたいURLを認識させると、AIがユーザーを選り抜いて広告を表示させる。しかもその広告自体を、見出しから文言から、ユーザーに合うように、ぜんぶ自動生成しちゃうのである(あゝ、WEBコピーライターはシンギュラリティの海に沈んだ)。以前は逐一リード文や説明文を書き、キーワードを精査して1クリックあたりの値段をチェックして…と煩雑極まりなかったのが、それがもう、ほいほい、てな具合である。

よってに、ぼくとしては、もう難しがりようもめんどくさくなりようもなくなったわけだ。

ぼくは唖然とした。これは便利なようだけれども、なにかこう、世界がとんでもなく遠くへいってしまったような気がする。もうぼくは、グーグル広告に対し、なにをどうすることもできなくなったのだ。

そして次の瞬間、あることに気付いて背筋がぞっとするほど怖くなった。だって、グーグルのAIがぼくのアカウントを見て「此奴は人類の繁栄に寄与しない輩だ」と判断したら、ぼくの広告はぜんっぜん表示されなくなるかもしれない。そしたらwebにお客さんがこなくなって、もう食べていけないよ><

 

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