八月八日に親知らずをぬくということで、とりあえず予定されていた酒の席はすべて一昨日以前に片付けて、心の中では白の裃を着けていた小林でありました。
歯を抜くのは十数年ぶりで、そりゃもう嫌な思い出しかない。ゴリゴリ、キュッという感覚は長らく記憶にあった。ああ、書くだけでゾワゾワする。
しかも今回、先生のいうには、親知らずの手前の歯のかぶせ物の下に虫歯があるようなので、一回の治療で
- 親知らずを抜く
- 隣の歯のかぶせ物を取る
- 虫歯を治療する
と、サザエさんのように三本立ての予定でありました。
もうこうなったら俎の鯉だと、いつもより念入りに親知らずに歯ブラシをあて、歯科に行ったわけです。
皮膚麻酔よりあと、注射器でもっていつもよりバンバン麻酔を打たれました。親知らず周辺を、あっちにチュ、こっちにチュ、と。10数箇所。あんまり奥だからか意識がもうろうとしましたが、これはいつものことで、じきになれました。
椅子の背が倒れて顔に口だけ穴の開いた布をかぶされて、時を待ちます。かみてに先生、しもてに助手さんたちがぞろぞろと集まって、まるでかたきうちです。
先生、おもむろに口に手を入れる スケーラーだの鉗子だのと指示がとぶ。手が動く。しかしわたしの口の中は麻酔が効いて、上をなぞられる程度しか感覚がありません。
やがて奥の方でギリギリと挟むような、ねじ込むような感覚があり
ゴリゴリ、キュッ。
嗚呼、抜けたんだと感じました。それじたいは呆気なかった。「抜きますね」とか「抜けました」とか言ってくれてもいいのに。飛行機だって当機は離陸しますとか、向こうの温度が何度だとかいうじゃないですか。もっとも前者は患者が構えちゃうから、せめて後者くらいはね。
さあ歯が抜けたということは、隣の歯にかかるのかな、と。1話目がおわって2話目です。一切のインターバルも無く、わたしはポカンと口を開いたまま、2話目を待ちました。
すると どうしたことでしょう。
先生の手のスケーラーは、親知らずが去り晴れて右の大奥歯に昇格した歯の側面を、ゴオリゴオリと手動で削り始めたではないですか。
「ははあん」私は思ったね。
つまり、隣のビルがなくなったいま、ずっと日陰になっていた外壁の汚れを落とそうじゃないか、と。歯石をとってらっしゃるんですな。おげれつなはなし、ガリガリゴリゴリ、面白いようにとれていくのがわかる。削られてる側としても、「いいぞ、やれやれ」てなもんです。
しかしいつまでたってもやっている。
先生、隣の歯のかぶせ物は、とらんのですかい?
わたしのそんな思いなど届くわけも無く、そもそも口に指をつっこまれているから物を尋ねることもできず、わたしは1話目と2話目の間のCMが長すぎることが気になりだしました。
やがてそのゴリゴリは親知らずに面していた側だけでなく、全面におよび、さらにその手前の歯に至りました。
なんだか急に場が静かになって、わたしは不安になりました。しかも、あの、バキュームというんですか? ごいごいよだれを吸い出す奴を、やけに助手が口に突っ込む。あれ? あれ? なんかねっとりしている。
そのうち先生は、親不知を抜いた肉のかたまりらしきところ(麻酔でいまいちわからない)を、何かの先でつんつんやりだした。おかしい。さっきは抜いたらすぐに隣の歯石をとりはじめたじゃない。だのにまたそこに戻るわけ? いまさら? たびかさなるバキューム。しずけさ。
もしやなにかしくじったか?
私がそう思った、その時です。
奥の歯茎にチクっと痛みが走りました。
結構な感覚です。バンバン麻酔打ってんだから、これ素でやられたら飛び上がってるよ。その後、ツーッと尖った感覚。右から左へ。それからまたチクっとし、ツーッと左から右。かえってく。
あ、縫ってやがる。
ふと唇にテグスの感覚。その間にも歯肉をよぎる糸の往来。もう、わたしは、ボロのデニム地に充てられる古切れのようにヨレた気持ちになって、泣きそうでしたよ。
親知らずの出血が止まらないから? それともスケーラーで傷つけた? 慌ててるから静かなの? 何とか言ってよ、先生('A`)
やがて治療が終わり、説明がありました。
師、曰く
「親知らずを抜いて、歯茎と隣の歯を見たところ、今日のうちに深いところの歯石を取った方がよいと判断し、二か所切開してお掃除*1し、縫合しました」
おどろいた。二か所とは。全く気付かなかった。見事な手並み。
たぶん、歯を抜いて歯茎がたゆっとなっている時が都合がいいのでしょう。よーく思い出すと、たしかに、数回前の治療の際、そういう治療の可能性を言われていた様な気がする。
「じゃあ 隣の虫歯は」
「時間が無かったので今回は」
「次回?」
「次は抜糸ですね」
そう答える先生のあっさりしたこと…。プロですね。その場の判断でパパッと手術する。そしてそれをやりきる。感嘆しました。そりゃミスなんてしませんよ。なんだか疑ってすみませんでした。先生、ありがとうございました。
(とはいえ、親知らずを抜くのは、たしかに治療ではありますが、まあ彼らの世界では一つの商機であるということも、言えるのかなあと思った次第です。だって、もうやられちゃったら、何も言えませんもんね。最初に見積り取るようなもんでもないし)
以上です。最後まで読んでくださりありがとうございました。
*
本は、本はいりませんか。本を買ってください。
- 作者: 小林アヲイ
- 発売日: 2018/12/30
- メディア: Kindle版
- この商品を含むブログを見る