こないだ、たまたまちょっと懐があたたかくなることがあった。私は日頃から「次に金が入ったらこれこれこういうもの(鰻など)を食すんだ」と、心の中で皮算用を繰り広げていたので、やや気を良くして「では」という構えを取った。ところが、いざとなるとそうはせず、近所のスーパーでいつものとおり半額シールの弁当を買い、明朝疲れるからと薄酒も買わず、素朴な影を引きずってまっすぐ家路についた。ちょっとくらいの贅沢をしてもよさそうなものを、結局しなかったのである。
いや たしかに、前向きに考えたのだ。今日は多少リッチなのだから、家でモソモソ食って家庭ゴミを増やすより、どこかの居酒屋の暖簾をくぐって、ささやかながら宴を催すのもいい。自分自身にケジメというか褒美というか、そういうのをするべきだ、と。
ところが、いざどこかへ繰り出そうと頭を巡らしても、何一つ思いつかなかった。何を喰いたいのか、飲みたいのか。それすら思い浮かばなかった。そうしてあれよあれよと、いつもどおりの生活パターンを踏襲してしまった なんの抵抗もできずに。
それにしても不思議だ。私は定期的に酒場の暖簾をくぐっている。おおよそ曜日が決まっていて、身体が多少きつくても訪れることにしている。だというのに、そうじゃない日には、同様のことがまったくできなくなるとは。
億劫で考えないのではない。
脳が思考をシャットアウトしている…そんな感じだった。
耳を動かせない人が「耳を動かしてみろ」と言われた時のよう。どこをどうしていいか分からない。
おや? 脳がシャットアウトしてるのは、もしかして私自身じゃないか?
とすると、脳って誰? 私って?
…というわけで、混乱&混乱、まさに粗忽長屋状態である。
正直、この状況は我ながら危険であると思った。
一体どういうメカニズムなのか。
理由を掘り下げると……頭が「ハレ」を拒んでいる。ように思われる。
もっと詳しく言えば、ハレにつながるイベントや出来事を、身体全体が嫌がっている。
そんなことは、いままでさんざんやってきた。めんどくさいし、甲斐がないし、あきあきしている。つかれるだけ。たのしくない。だったらそんなのは初めからやらないほうがいい。
そういう発想なのである。
しかし、心の中には生真面目な側面もあって、
自分一人で満足していても、所詮自分の枠みたいなものから出れないべ。あんたもいくらか創造的な商売をしているのだったら、やはり多少は外の刺激を受けるべきだよ。
と、私に囁きかける。
私はせせら笑って反論する。
よせやい、たかが酒場に繰り出さなかったくらいで、なにが刺激だ。そんな大層な。
けれども、こういうのは「モノの程度」ってやつである。
たとえば、しばしば「箸が転んでも笑う」なんてことを言うが、あれは些細なことでも心動かされる若々しい好奇心と感受性をあらわしている。こんな私でも、たしかにかつては、何をするにも刺激を覚えた。いちいち好奇心に打ち震えた。世の中の何一つとして小説のネタにならない物は無いとさえ思ったほどだ。刺激だと思えば何でも刺激になりうる。とりわけ酒場は、まさにその宝庫と言えた。
でもいまは、箸が転んでも笑わないし、酒場に刺激を得ることもない。小説だって、何にも思いつかない。
世の中が変わったとは思えないから、自分の目が曇ったのでしょう。
ではなぜ曇ったのか。倦怠か、退屈か、傲慢か。
いずれにせよ、症状は軽くないように思われる。
だって、脳が思考を拒否するほどだもの。
それでも、自分を納得させるために無理して診断名を下そうとして 「老い」という言葉に思い至った。
以上のようなことを同じ年の友達に話したら
「いや、それは老いじゃないよ」という。
じゃあ何?と尋ねたら
「ふつうだよ。みんな一緒」という。
余計分からなくなった。
みんな一緒だったら、別にどうでも構わないのか?
*
こんな貧乏くさいことはあまり書きたくないのだが。
以上です。