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創作に許しを求める私の瓦斯抜きブログ

無責任落語録(34)「二階ぞめき」

12月になって少し時間ができたので、KDPのセルパブ本を努めて読んでいる。無料キャンペーンでダウンロードして積みっぱなしだったので、まとめて消化にかかっているのである。界隈ではよく知られた方から、初めて知った方まで様々だ。読んでいると、この世界の裾野の広さを実感する。とにかくたくさんの作品が存在する。初見の作家さんでランキングを見る限り無料配布のはかどっていない感じの作品に、今回どれだけ感動させていただいたことか。発掘のしがいがある。

 

は、私はあんまりSFとかファンタジーが好みでは無い。
といって、根っから嫌いというのではなく、私の小さな脳味噌とリンクするところが少ないもの、すなわち、現代的な知識に根差さない作品が苦手である。完全に異世界の設定だと、現実とのとっかかりがなくて戸惑ってしまうのだ。

SFだったら、現代をベースにしたものならOKで、逆に完全な未来を舞台にした話にはついていけない。
ファンタジーなら、ドラクエみたいな剣と魔法の世界観はOK。「西洋史」という現代的知識に基づいている感じがあるからだ。かといって、現代とファンタジーが同居する世界観、たとえば銃と魔法が混在するような世界観はダメだ。

人が作品と接する理由は様々だ。空想上の世界を楽しみたいという人なら、SFやファンタジーは大歓迎だろう。かたや、登場人物の葛藤・煩悶を楽しみたい人は、自分自身が生きる現代が舞台の方が感情移入しやすい。
むろん、どんな作品も人物・舞台ともバランスよく創られるべきではあるんだろう。
けれども実際、読者ニーズは厳然と存在しており、むしろどっちつかずの作品は結局没個性なのかもしれない。三国志を全く受け付けない人もいるし、ドストエフスキーがダメという人もいる。でもどっちも今なお読み継がれている。

 

は少ないが、落語の中にもSFというかファンタジーというか、不思議な世界観の噺がいくつかある。それらは私にとって、やはりどこか親しめないし、あまり面白いとも思えない。代表的な噺は「頭山」「二階ぞめき」。今回は後者を俎上に上げる。

二階ぞめきは、簡単に言うと、こんな噺だ。

吉原をひやかして歩くのが好きな若旦那がいる。
女遊びをするわけじゃないが、堅気の家の息子が毎日夜中まで吉原をぶらつくのは聞こえが悪いと、大旦那はご立腹。勘当すら考える。

それでも若旦那は吉原に行こうとする。

番頭が提案する。
「二階が空いているから、棟梁を呼んで二階に吉原を作らせましょう」
かくして二階に吉原ができる。

若旦那、二階を<ひとり芝居>で冷やかすうちに、どんどんのめりこみ、若い衆と喧嘩になる。
一階に居た大旦那、二階が騒がしいので丁稚の定吉に「注意して来い」と命じる。
二階に上がる定吉、若旦那がひとり芝居で自分をぶったりぶたれたり。
そのうち、若旦那は定吉に気付いて、ひと言
「ここで会ったことは親父には黙っておけ」

一戸の二階に吉原を作り(作ったことにし)、空想力をフル稼働して素見を楽しむ  現代の中二病じゃないが、かなりファンタジックな世界が繰り広げられている。

もしかしたら江戸時代の人々には、こんな風に想像力を使った遊戯に長けていたのかもしれない。鰻の匂いや梅干しを見た涎で飯をかっこんだり、「だくだく」みたく「~のつもり」で物事を楽しんだり、類するエピソードはかなり多い、

ろん、単にブッ飛んでいるというだけでは、今日まで古典落語として残れるわけもない。卓抜した噺家に演じられて陽の目を見ているのである。この噺の演者は主に、五代目古今亭志ん生、三代目古今亭志ん朝、五代目立川談志……つまり、ほぼ志ん生の形である。

志ん生はおそらくかなり吉原に通った口だから(本人談「勉強し過ぎました」)、情景描写に並々ならぬモノがある。特にひやかす際の着物の説明はこと細かだ。古渡唐桟、算盤玉の三尺、拳固を貯蓄する平袖、ほっかむり姿。それらの説明をした後、一杯心地で吉原を歩いていく、その時に口ずさまれる気持ちよさげな唄ときたら。実際に通ったものでしか演じられない風合いがある。

しかしたら、本来この噺は、噺家に追求されたリアルを観客が共感して楽しむ噺だったのかもしれない。演者がこと細かに演じたものを、観客が「あー、そうそう」と感慨深く味わうのである。
売春禁止法施行で昭和33年3月31日をもって吉原が終了した後は、憶えのある者だけが懐かしむ噺になり、さらに時代が下って世の中が吉原を知らない人ばかりになると、想像力のイッちゃってる若旦那の乱痴気を面白がる噺でしかなくなった。
噺のニーズが時代と共に変化しているのではなかろうか。

がこの噺をあまり好かないのは、他の噺にあってこの噺に無いものがあり、それがあまりに大きな欠損になっているからだ。それは、奇しくもこのネタをラインナップに組み入れていた立川談志の落語論に照らせば、明らかである。

「落語は人間の業の肯定である」。

むろん「二階ぞめき」にだって業がなくはない。「何かを欲する」「欲する気持ちを止められない」  これだって立派な業である。
しかし、他の古典落語が抱えている業は、もっと人間の底部に根ざしている。「居残り佐平次」や「らくだ」、「粗忽長屋」にあらわれる人間の業は、とことん根深く、癒され難い。それが深ければ深いほど、叶えられないもどかしさが高まり、聴衆は感情移入を高める。そこでオチに空回りやどんでん返しが訪れて、見事な笑いがおこる(ここには三代目桂枝雀のいう「緊張と緩和」が関わってくる)。

だが  二階ぞめきはどうだろうか。

二階ぞめきには、迷いも無ければ、救いも無い。

オチの気が利いているのがせめてもの救いである。


いつも思うんですけど、この噺を演っている時の、噺家の楽しそうなこと。
文章書きが書いてて楽しい作品があるように、演ってる当人が楽しい噺ってのもあるんだろう。

自己満足は大事だ。ウン。
そこんとこ、肯定しときたい。

 

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