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創作に許しを求める私の瓦斯抜きブログ

無責任落語録(22)「五代立川談志」

責任姉妹3・4の無料期間終了しました(9/8~9/17)。ダウンロードされた方、ありがとうございます。今のところ何の反応もありません。「タダとはいえ貴重な時間をドブに捨てた」とか「なんかもう中身が無責任だ」とか思った方もいるかもしれません。怒りのあまり、★☆☆☆☆なんてしようとしている方、手を止めてください。一生懸命書きましたのでそれだけは許してください。

今回はKDPセレクトによる無料キャンペーンじゃなくて、プライスマッチを利用した無料頒布だったので、開始も終了もあまぞんさんにメールでお願いして、ご都合のよろしい時に価格設定をしてもらう方式を取った。その結果、一週間くらいやるつもりが十日ぐらいやったのかな。それぞれ200くらいダウンロードされた。無料ランキングでは最大瞬間風速26位を目撃した。一方プライスマッチの当て馬の方は、一冊も出なかったゾ。

もともと二つともリリースのタイミングが悪かった。売れない。見向きもされない。レコメンドもスッカラカン。なんとか刺激になればと今回の無料頒布をやって、たしかにレコメンドは多少埋まった。これで多少変わるかなと思って無料期間を終了したが  相変わらずですね。まあ、もう少し様子を見てみようとは思うけど、こんなのはほとんど初動で決まっちゃいますからね、初動で。


ダほど高いものは無いというが、物の価値というのは金の多寡に反映できるものなのか。こりゃまあ、ありきたりな話題で、「金=悪」みたいなのが結論になりがちだが、事実、金が集まるところに人の関心が集まっているのは確かである。世の中、もっとも当たり前に価値に目盛りを授けてくれるのが「金」であることは、間違いない。他に何かある? 水? 米? 美? 愛?

 

と金の関係について、記憶しているインタビューがある。2001年に古今亭志ん朝が亡くなった時の追悼インタビューで、五代立川談志が「金を払って聴く価値のある噺家志ん朝だけだ」と言った。私はこれを後年になって聞いたのだが、「家元、本気なの?」と思ったものだ。

立川談志は、1978年の六代三遊亭圓生落語協会脱会に際し、志ん朝の香盤を自分より下げるためにいろいろ画策した  と言われている。家元は芸を見る目は確かである。志ん朝の芸が自分より上だと思うなら、香盤のことをどうこう言うとは思えない。この頃、家元は間違いなく「志ん朝の芸は自分より下」と思っていたのだと思う。

ところがその態度がひっくり返る。

1983年、独立して立川流を立ち上げる。これまでは落語協会という一つのくくりの中で、自分が上、志ん朝が下と言っていれば良かった。だがこれからは立川流の家元として、同じような物言いをしていたんでは、相手と同格になってしまう。そこであの発言である。つまり「志ん朝という奴は俺が認めるんだからすごい奴なんだぞ」と、相手を上げることで自分を持ち上げている  ように聞こえる。そしてさりげなく「志ん朝の芸は金で測れる」という何だかイヤァなニュアンスも含んでいるようにも思われる。

志ん朝に対しては積年の思いもあっただろう。入門は家元が先、だが真打昇進は志ん朝が先。家元は回顧的インタビューで、自分の師匠柳家小さんが、顔付けで強く出られないと愚痴っていたが、落語界におけるパワーバランス的にも、家元は弱い立場だったようだ。志ん朝志ん生の弟子であり息子である。


川談志は、従来の落語の物差しでは測れない活躍をした。これは間違いない。落語の明著「現代落語論」の上梓、笑点をはじめテレビ・ラジオでの活躍、参議院議員沖縄開発庁長官、立川流の設立等々、枚挙にいとまがない。関東ローカルだった伝統芸・落語は戦後のラジオで全国区になったが、それをリアルタイムな芸能に格上げしたのが立川談志である。そういう意味での功績は歴史上の大名人の誰よりも大きい

落語家としての家元は、イリュージョンという境地を拓いて他の噺家と比較のしようがなくなった。家元の口演する古典落語は彼の境地を理解するための下敷きに過ぎない。「やかん」「芝浜」「粗忽長屋」「落語チャンチャカチャン」……観客にそれなりの落語知識を要求し、なおかつ談志的な解釈の理解を迫る高座は、コアなファンにはたまらなかった。そんなだから独演会は「談志教」のミサであり、客は信者であった。とりわけインテリに受けたのは、談志落語の哲学性だ。「落語は人間の非常識の肯定」という不安定な人間性への視座はWW2前後の欧州文学を読み耽った層には魅力的に映ったことだろう。

っともこういうのは後年のことだ。談志の落語は70年代が全盛のように思われる。源平盛衰記、野晒しといった、やや調子がかった「語り系」の噺は素晴らしい。けれども当時は圓生文楽正蔵といった写実落語が全盛の頃。ライバル志ん朝もその系統で、談志は同じ路線で戦うには不利だった。個性が強すぎて、写実落語を演っても自分自身で障ってしまうのである。イリュージョンは、写実落語と一線を画すために生まれた  というのが私の意見だ。だとすると、「他のやつらと一緒にするな」「やつらは咄家、俺は落語家」というセリフと辻褄が合う気がする。

 

間では「談志と言ったら芝浜」というおもむきがあるが、実際は、ちょっと聞きかじった人でも「それはない」と言うだろう。これは立川流のお弟子さんたちもラジオで言っていた。

私が家元の落語で好きなのを挙げると……

一文惜しみ
鼠穴
子猿七之助
鉄拐
笑い茸

あんまり演る人がいない噺が多い。どれもメリハリや啖呵といった語り口が求められるネタ。職人さんを演るとすごく合う。声のせいかも。

持ちネタは相当多いけれども古典落語をそのまますることはなく、シュールや哲学が混じることが多い。そういうネタは話芸というより談志哲学・談志教義として聞くと非常に面白い。

やかん
粗忽長屋
松曳き


はどんな時に金を出すのだろう。どんな時に金を出してよかったと思うのだろう。
個々の期待値と、それを上回る裏切り。そこに「あッ!」と驚きがあって、喝采が額面になる。ということは、裏切られたと思えるだけの前情報が事前に開示されてないといけない。

立川談志の落語は、立川流という紆余曲折の歴史と、家元談志の強い個性がものすごい前情報となって、いつも過激な期待をされてきた。その期待を叶えたり裏切ったりするのは難しかったことだろう。席を抜いても、観客と裁判になっても、鮫と闘いに行っても、がん会見で煙草を吸っても、ファンにはまだ想定内だった。過激な芸人人生、最期に望む死因は「ふとした病」とジョークめかして言っていたのも、もしかしたら「せめて最後ぐらい安らかに眠りたい」と思っていたのかもしれない。

とはいえ、死後、NHKに「うんこくさい」と言わせようとするなんざ、やはり天才芸人。こればかりは「金を払っても」なかなか演れない芸当だ。

 

 今回は以上です。秋です。寝冷えにご注意ください。

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