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創作に許しを求める私の瓦斯抜きブログ

無責任落語録(17)「てれすこ」

日7/28【学園コメディ無責任姉妹3機械少年の憂鬱】が発刊された。約一年二か月ぶりの新刊である。新刊の頒布に際し、秘策があるわけでは無い。先だって動画をつくったりしたのも気まぐれである。まあ、本も動画も、見て下さった方が喜んでくれればと願うばかりである。

 

が落語好きであることから、無責任姉妹シリーズも落語の影響を多分に受けている。影響だけでなく、実際に落語に関する事柄があらわれる。1,2巻では登場人物の漆田風奈が落語部をつくろうとしたり、高校生モデルが「鰍沢」を演って周囲を凍てつかせたり、落語抜きに話は進まない。もっとも落語に詳しくなくても意味が分かるように説明を付加するなど、だいぶ噛み砕いてはいる。それはアマゾンのレビュー(2巻)にいただいている通りだ。

学園コメディ 無責任姉妹 2: 漆田風奈、逆上ス。 (さくらノベルス)

学園コメディ 無責任姉妹 2: 漆田風奈、逆上ス。

新刊では、落語用語はいくつか出るものの、落語そのものの知識は全く必要ではない。そういう意味では純粋に単なるバカっ話である。だがひとつ、重要アイテムの名前に「てれすこ」が登場する。「てれすこ」は古典落語の題名だ。固有名詞として表れるだけでそれ以上の意味はない。だが、用いたからには私も何らかの解釈をせねばなるまい。そこで今回は「てれすこ」を無責任落語録の俎上に乗せることにする。

 

語は人間を扱う。だから哲学的な噺もある。
自己の存在についてハッとさせられるのは「粗忽長屋」である。下げの文句「抱かれてる俺は確かに俺だが、抱いてる俺は一体誰なんだろう?」は、現代社会にも十分通じる。

働かされている俺は確かに俺だけど、働いている俺は一体誰なんだろう?

こうなると、噺を聞いて笑っている場合ではない。

滑稽噺「開帳」では、出開帳の御印文をめぐり「賢い者はあずからない」と洒落るが、これがルターなら一体何と思うだろう。日本人の宗教観・信仰について考えさせられる小咄だ。

そして最後に、記号論とでも言おうか、認識について考えさせる噺が「てれすこ」である。

 

れすこはこんな噺だ。

ある漁村で珍しい魚が釣れた。村の漁師が見ても誰もその名を知らない。お役所は懸賞金百両を出し「この魚の名を知る者は申し出よ」と触れる。すると蓼屋茂平なる者が名乗り出て「この魚は『てれすこ』である」という。誰も知らないから正しいかどうか分からない。茂平は百両貰って帰った。

奉行はこれを聞き、魚を干物にさせてもう一度百両の懸賞を掛け「この干物の名を知る者は申し出よ」と触れさせる。すると再び蓼屋茂平、進み出て「これは『すてれんきょう』でございます」。奉行は立腹し「貴様、先だってこの魚の名は『てれすこ』と言ったではないか。それがなぜ『すてれんきょう』か。奉行を愚弄し金二百両をせしめようとするとは不届き。首を斬る!」。

茂平は処刑まで座敷牢に入れられる。これも因果、仕方が無いと諦める。奉行は温情を掛け、一つだけ望みを聞いて取らすと言う。茂平は妻子に会いたいと願う。赤子を胸に抱く妻は、夫が処刑されると聞いて火物断ちをして痩せている。茂平は妻に言う。「いいか、幼子には決してイカの干したのをスルメと呼ばせるな」。それを聞いた奉行「なるほどそういうことか!」茂平は放免となる……。

枕では「処変われば品物の名が変わると申しまして、江戸でザルが大阪でイカキ~」というくだりが用いられる。これを聞かせて客席に「うん、そうそう」と得心を与え、同じでも名前が違うことがあるという現実を擦りこんでから噺に入る。

長さにしてせいぜい15分程度のあっさりした噺である。別段大ネタでもない。実際に寄席ではどのくらい掛かっているのだろう。ネットで調べたところ、過去の演者は案外少ないようだ。

別に三遊亭のネタというわけでもなさそうだが、この三人の録音しか出てこない。上方では桂米朝あたりがやっていたという話もあるので、もしかしたら大阪で橋本川柳を名乗っていた三代三遊亭圓馬に由来するのかもしれない。

三人ともほぼ同じ構成である。くすぐりもほとんど同じ。円歌だけ若干賑やかな感じがする。私の好きなのは金馬のこの部分。

蓼屋茂平、うまくやったものです。何か言えばそれでいいんですから。別に「てれすこ」でなくても、サンタ・クロースでもオネスト・ジョンでも何でもいいんです。

オネスト・ジョンって何だよw(なんかゴルフであるらしいね)

 

生一人だけ下げ方が違う。他の二人は次のように下げる。

  こうして茂平は無罪放免になりました。それもそのはず、女房がヒモノ断ちをしていたから、あたりめぇの話……。

ヒモノだからあたりめ(スルメのスルを嫌ってアタリメと呼ぶ縁起語)という駄洒落である。全くもって下らないが、これを言うことで噺の後半に充満する緊迫感みたいなものがスッと抜けるのは確かだ。

しかし圓生は「それもそのはず、女房がヒモノ断ちをしているからでございます」で切り上げる。圓生曰く「あたりめぇなんて蛇足でゲス」とのこと。蛇足かどうかは分からないが、円歌・金馬二人の下げ方は確かにおかしい。女房がしているのは火物断ち、つまり火を通した食事を断っているのであって、干物に限って断っているわけではない(無論、含まれはするだろうけど)。それを同音の「ヒモノ」だからといって「あたりめぇの話」と掛け調にするのはやや無理がある。

といって、私は圓生の下げ方も難があると思う。なぜなら圓生の下げ方では客に「」が残るからだ。そもそもこの噺は全体通して笑える話では無い。どちらかというと頓知噺、しかも蓼屋茂平の悪事が通る話である。最後の「イカをスルメと呼ばせてくれるな」のくだりは、聞き手は溜飲を下げる部分だが、別にあははと笑えるわけでは無い。さらに考えて欲しいのは、この噺はせいぜい15分程度の軽い噺だということだ。トリでやるようなネタでもなく、どちらかというと膝前、膝前の前などあっさりしたところでやるべき噺である(と思う)。そんな場所で頓知噺を聞かせ、客に「なるほど」と得心を与えても仕方が無い。むしろ「あたりめぇのお話しィ~」と駄洒落で下げて客席を失笑させたほうが、番組的にはお後につなぎやすくはなかろうか。

 

容紹介というより演出論的になったね…。
ストーリーの整合性は作者・演者などクリエイターのもっとも気を遣うところである。彼らはストーリーをなるべく永遠普遍の境地に導こうとする。が、実はその物語がどこに置かれるかで、扱いは変わるべきである。多少辻褄が合わなくても構わなかったり、あるいはむしろ好ましかったりすることもあるのだ。そういう風合いをクリエイターは察することができねばならない。なぜならクリエイターとは、新しい物を創るばかりが能でなく、「何が何処にあると世界がどう変わるのか」という予測に長けた人種であるべきだからである。それが可能になってはじめてクリエイティブが世の中を変えていく。幸福も進化もその掌中に掛かる。たとえば「てれすこ」を演る三者の比較に学びを求め、「人はいかにして最高の状態を選び取るか」考えるのも、クリエイティブの果たせる業であろう。

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今回は以上です。
とにかく、本日発売【学園コメディ無責任姉妹3機械少年の憂鬱】、ぜひお読みください。今夜は一人で出版記念ぱーちーを、チキンラーメンか何かでやりますよ。

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