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アヲイ報◆愚痴とか落語とか小説とか。

創作に許しを求める私の瓦斯抜きブログ

ダメと世間と、凡庸に対する私の悶え。

思ったこと 電子書籍

こ一、二年、よく風邪を引くようになった。こないだまで二年にいっぺんくらいしか引かなかったのが、年に二度も三度も引いている。環境が変わったことと、寄る年波で肉体が衰えたことが重なり、ホントにダメになってきた。

メになってきたといえば、近頃は自分が非常に礼儀知らずになったと思う。人としてダメになった。普段人に会うことがないので、たまに目上の人に会った時、うっかり地金が出るのである。「お待ちしておりました」と言うべきところを「待ってました」と言ってみたり、先を譲るところをそそくさと先んじてしまったり、後になって恥ずかしい思いをする。分かっていても言ってしまう、やってしまう……。こういうのは、やはり常日頃からそうしていなければできないことだ。「頭では分かっている」という自覚が、こと自分に関しては全く信用できなくなった。非常に残念な状況である。

 

語や遵法のように、社会においてダメとかダメじゃないというのは、一つの基準に達しているかどうかである。達していれば可、いなければ不可のように、わりかし明確な線引きだ。

税金を 〇納める ×納めない
挨拶が 〇できる ×できない

ところが質的な違いに線引きをしなければならない時、納得できない場合がある。たまにテレビで芸能人格付けナントカをやっているが、ああいうのを見ていると、私は大概チョンボを引く。ストラディヴァリウスの音色、名画の真贋、プロと学生の映画比較……。肉やワインの味わいはテレビでは判断できないからさておき、視覚聴覚を通して比べるものでも根こそぎ間違う。さすがにちょっと嫌な気分になる。

でも、そういうの個人の好みだから、いいじゃん。もっと自分の気持ちに自信を持てよ。

それはそうだ。


が事実、世間は大衆の合意で動いている。質的な選択肢において、それが好みによる区別でしか無かろうとも、世間はいずれかの答えを示す。そして人は、自分がそれに反すると違和感を覚える。ダメのレッテルを貼られた感じがするのである。もっとも違和感で済めばまだいい。質的差異も、大衆の合意如何によって正誤に分かたれることがある。世間が明確にダメを突きつけてくるのである。まったくもって不条理だ。

私が地方の広告会社に勤めていた時のことだ。
この会社では、CMなりイベントなりお客様のご依頼で会社から一つの企画を提案する際、社内全体に呼び掛けてアイデアを募集する。複数出た中であまりに逸脱した物がふるい落されたのち、社内選考が行われる。おおよそはリーダーの鶴の一声で決まる。私はいつも不思議と彼と違うものを選ぶ。選んでしまう。予算やメソッドと言った具体的な懸案ではなく、モチーフやイデオロギーなど抽象性の高い選択肢だ。そこで反対を選ぶ。選んでしまう。

この時点では、まだそこに正誤は生じていない。
だがそれが実現の運びとなると、否応無しに結果が出る

リーダーの決定は、大概うまくいく。世間で評判になってビジネスが広がっていく。
逆に過去ほんの数回、リーダーの意志とは裏腹に  つまり、もっと上層部か顧客自らの働き掛けによって  私の選んだプランでゴーが出たことがあった。が、それは大した広告的成果を挙げられず、ビジネスとして膨らまなかった。失敗=ダメである。

「おおお、リーダーすげえ」
「よほど素敵な人物」

しかし、この人は日頃なんにも面白いところがなく、特殊能力があるわけでもなく、とにかく普通  というか凡庸だ。ただ業務で企画を選択する場合のみ、大衆の嗜好を適確にキャッチするのである。

もっとも凡庸だからこそ、それができるのだろうけど。

 

は下手なりに自分自身を表現者・発信者と措いて、日夜駄文を綴っているが、彼の事を思い出すと、いつも不安を覚える。

「自分の世界が表現できればいい」
「分かる人に届けばいい」

無論そうは思うけど、やはり周囲から趣旨と違う反応を示されたり、思ったほどのレスポンスが得られないと、なんだか寂しい気分になる。大衆が何を求めているのか、迎合するつもりはないけれど、ちょっと知りたい気もする。かといって大衆性を得るためにリーダーのように凡庸になるのは不本意だし、もう、どうしたいの俺、と悶える。

 

……何の話だっけ。

そう、風邪をひいて、いろいろダメで、同情してもらいたくて、鼻水と並んで愚痴が出た。
読んでいるあなたに、感染うつしちまいたいです。

あ、最後に。これ
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夏休み前までに、せめて(3)は仕上げたいです。

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