長編物語というのは、中身は小さなエピソードの集まりで、それらがいろいろな結びつき方をして、ひとつのまとまりになっているものなのじゃないかと思う。
人間の身体に例えるなら、脳みそ・心臓・肺・胃袋・肝臓などそれぞれ独立した機能を有した臓物が、血管や神経などを介して不可分な関係を持ち、一個の肉体という大物語を紡ぎあげるような、そんなイメージだ。
だからこそというか、そんな長編物語で有効な手法が、多面的にアプローチする人物造形だろう。
再々人間の身体に例えるなら、心臓ひとつを描写するにも、肺から見た心臓、肝臓から見た心臓、大腸から見た心臓といった風に、心臓に語らせなくても他の臓器から心臓を語らせることができる。しかも立体的に。
ドストエフスキーの長編にはこういう傾向が非常に顕著だ。スタヴローギンは寡黙そのものだが、世界文学の登場人物の中でも突出した人格だし、スメルジャコフもそうだ。
落語「真田小僧」は決して大ネタではないが、噺の中に三つのエピソードが盛り込まれ、主人公であるこまっしゃくれた小僧の性格を浮き彫りにしている。
そのバランスは見事としか言いようが無い。
- 按摩さんの話
小僧が「おとうちゃんのいない間に、白衣でステッキを突いたサングラスの男がきて、おっかさんの身体をもみほぐしていった」という話を小出しにし、父親から小銭をむしり取る。 - 講釈を丸暗記
親父が講釈場に長らく通ってようやく覚えた真田幸村の話を、小僧は立ち聞きで覚えて完全にやり返す。 - 六文銭の話
小僧が「真田の旗が分からない」として親父に六文銭を並べさせ、すっかり持っていってしまう。
この三つのエピソードが重なるところに、小僧の性格や能力が見えてくる。聞き手はいつの間にか
「お?こいつもしかしたら、真田幸村並みにやれる奴なんじゃ?」
というシナジー的な期待を憶える。
だが、これが一つでも欠けると、ただの陰険なガキになったり、銭ゲバになったり、人でなしになったりする。
よく「三位一体」なんてことを言うが、この噺はまさにそれが叶っている。聴くたんびに「この小僧の物語、続編があったら聞きたいな」と思う。思ってしまう。
また、下げもいい。スッとする。
「親父もやるじゃん」なんて思ってしまう。
この噺の名演は、やはり三代目三遊亭金馬だろう。師は「居酒屋」「勉強」「藪入り」など子供の登場する噺が光る。中でも「真田小僧」は珠玉である。
最近、大河ドラマで「真田丸」をやっているとか。私の家にはテレビが無いから分からないが、そういうのを見てなお「真田小僧」を聴いてみるのもいいかもしれない。