アヲイ報◆愚痴とか落語とか小説とか。

創作に許しを求める私の瓦斯抜きブログ

ご婦人方と、物書く人の孤独のはなし

文学という言葉が黴臭くなって、サブカル的ジャンルがほとんどメインカルチャーになっている。

そんなこんにち。

「文学は地に堕ちたよ」
「戦中くらいまでじゃないかしら」
「今はもうグダグダね」
「ロクに日本語も知らない奴が書いている」

何故だか、私の周りには文学賞を獲った人が何人かいて、のべつそんなことばかり言っている。
そんな人たちと、たびたび飲み会になる。
ほとんど女性だ。孫がいてもおかしくない妙齢の方々。
なぜいつも自分が混じっているのか? すっかりおっさんとはいえ、御婦人方に混じれば若い男だからか?

彼女たちは今でもなにかしら文章を書いていて、まるで乙女が未来の恋に胸をときめかすように語り合う。

「今年は〇〇賞出そうかしら」
「あれは××先生が審査員だから、門下優先よ」
「でも昨年は◇◇さんが獲った」
「ルール違反よね。応募三回以上じゃなきゃ外すとか言っといて」

ああ、聞きたくないな。こういう話。
でもさすがなもんで、毎年、彼女らの中からだいたい一人はどっかの地方賞を獲るか、少なくとも入選する。
ほとぼりがさめた頃、その人の賞金で祝勝会が行われる。
万年タダ酒の私は万年無冠でいいやと思う。
「良い物を書いていつか返せ」と言われるが、そんな気は毛頭ない。

、後から受賞者だけ外した会が催される。

「なんであれが?」
「一行目からあれはないでしょ」
「あんなのが獲るなら、わたしもう出さない」
「応募前に先生が原稿に赤入れたって言ってたけど、あの程度?」
「先生も耄碌したわね」

彼女たちの悪意に満ちた横顔……ニヤリ。毒婦の微笑。
仲間と交わす悪口は最高の肴と言わんばかり。

そう。彼女たちが真に楽しんでいるのは、この井戸端感なのだ。詩情でもレトリックでもない。文学は井戸端を楽しむための御膳立てに過ぎない。

ライバルや師匠、田舎文壇そのものを批判する時、彼女たちの目はキラキラしている。酒も進む。口も廻る。

そんな彼女らを見て、私は自分を顧みる。

構成を考えている時、本当に楽しいか?
文章を書いている時、本当に楽しいか?
推敲をしている時、本当に楽しいか?
出来上がったら、本当に嬉しいか?

正直に言うと、どれも「」だ。むしろ苦しい。

 

  じゃ、なんで書くの?

んな私にも、昔っから互いに読ませ合う友達がいる。
いや、「いた」と言った方がいい。
いまはちょっとごたごたして音信不通だ。

そいつとはしばしば書いたものを交換したものだ。

「お、こいつも書いてるな」

相手が巧いと悔しく、不覚にも情を催すと「負けた」と思う。
そいつも同じだったに違いない。
私は彼には遠く及ばなかったけど。
いずれにせよ、そうやってお互いの存在を確かめ合うのが好きだった。現在書いているのも、いつかそいつと関係が改善した時に読ませたいがため  かもしれない。今書いててそう思った。

物語を書くのは孤独な作業です。

だから、たまにネット上で書き手同士がぎすぎすしたやりとりをしているのを見ると、こういう交感の仕方は文士ならではだと大いに納得するし、顕われ方は違うけど、先述の女性たちのことを思いだしたりする。

人は自分の存在を確認するために、恋人でも友人でもライバルでも、場合によっては仇でも、とにかく他人が必要なのだと、改めて思うところです。