アヲイ報◆愚痴とか落語とか小説とか。

創作に許しを求める私の瓦斯抜きブログ

責任論。

世の中の様々なところにひずみが生まれている気がする。

戦後、国体が変わり、舶来の民主主義が“日本教”の主軸に差し替えられた。
元来きわめて原理主義的で、教義の根本をひと言で言い表すなら「言わずもがな(=空気を読もう)」の日本教。長い歴史で培われた空気読感覚は凄まじく、昨日までのチョンマゲが文明開化など朝飯前、その気になれば腹も切り、戦闘機で突っ込んだ。
だが戦後そこに民主主義が流入してきた。民主主義では選挙権があり労働争議もでき、とにかく自己主張がすすめられる。これからは「空気を読め」じゃなく「空気になれ」。そんなこと、いきなり言われたって…。国民は、戸惑うどころか戸惑うすべもなかった。
うまくいかないのは最初っから分かりきった話である。

そもそも民主主義が日本人に向いていたかはさておき、ひずみが生じたことには以下のような理由があるように思われる。

ひとつ、言葉の解釈の問題。
たとえば、権利における「自由」という言葉の解釈。
誰が何を訳したのか分からないが、ひと口に「自由」と言っても、それが「フリー」なのか「リバティー」なのか、私はいまだに区別がつかないし、一部には「ノールール」だと思っている人もいる。さすがにノールールじゃいかんことは、心ある人なら誰でも分かるだろうけれど、その「心ある」という指標もあんまり明確でない。

もひとつ、社会の変化の実感も、誤解をさそう。
「価値観が多様化してきている」と、人は言う。
ほんとはそうじゃない。
もともと、価値観というのは想像力の働く限り、無限に生じるモノだ。
一貫した日本教だった社会が、ある意味成熟した民主主義社会にまで成長(?)し、ようやくそこに目が向いた時に、あたかも多様化したように見えたってだけだ。しかも、ちょっと変な風に。

民主主義ってのはキミ、自由なのは言わずもがなだよ」
「そしてその自由とは、フリーリバテイーノールールも含まれるよ。すなわちバイゼロ(×0)だよ」

 

こうして現代人の行動様式が変わった。
私が最近気になったのは、イスラム国の件だ。

「私は私の責任で現地に赴く。殺されても自己責任だ」
一人のジャーナリストがそう言い残し、悲惨な最期を遂げた。
自己責任  この言葉が彼の覚悟を示していたのは間違いないと思う。

しかし、責任とはそんなものだろうか。
彼には、自分自身以外の領域に措かれた責任は一切無かったのだろうか。自分の責任は全て自分の範疇にあると思っていたのだろうか。また、彼自身そういうことについてどれだけ認識していたのだろうか。
(亡くなった人がいる件でこんなことを言うのもなんだか気が重い。)

こんな形の責任の解釈は、すでに蔓延していると思う。

人は独りで生きているのではないよ。
世に蔓延した“上っ面”だけの自己責任を、何とか糾弾したい。
そんなつもりで書きはじめたラノベだったはずが……全然そんな風に仕上がらなかったな。