アヲイ報◆愚痴とか落語とか小説とか。

創作に許しを求める私の瓦斯抜きブログ

最近読んだ本。漫画・論文・芸談・小説。

最近読んだ本について書いときます。4冊。

 

『タンタンの冒険 なぞのユニコーン号』エルジェさん

お買い得ペーパーバックが出ていることを知らなくて、アマゾンで見付けて衝動買いした。小学校時代、図書館にシリーズが並んでいて、みんな順番待ちして読んだものである。家が漫画禁止だったので、ぼくが『マンガ』といったらただちにこれを示す。
発注直後、なにしろ読むのは小学校以来だから「きっとチャチに感じるんだろうな」と危惧していたが、届いてみたら、いやはや、いまでも十分見応えがあった。とにかく背景の書き込みが好きです。ただし、ストーリーがこんなに陳腐だったっけ……と。小学生が楽しめるレベルだから、そう難しい話であるわけもないが。こないだYoutubeルパン三世の初回放送を見た時に近い「ありえんわ('A`)」感があった。

ペーパーバック版 なぞのユニコーン号 (タンタンの冒険)

ペーパーバック版 なぞのユニコーン号 (タンタンの冒険)

 

鼻行類』ハラルト シュテュンプケさん

ありもしないことをその道の専門家がさもありなんとして書き上げた生物学論文(?)である。分類法や解剖図面・骨格図など、誰がどう見たって「本物じゃん」と思ってしまう書き方だ。こんにちなればこそ、巷に情報が溢れているから「そんなのがいるって聞いたことが無いよ」と直感的に疑問を持てるけど、そうじゃ無い時代の人々が見たら、信じてしまう可能性は大だ。
真に驚くべき点は、この本の周辺に渦巻く諸状況、すなわち、こういうものを著そうと思いたつ了見、刷って売ってやろうという了見、買って読んでみようという了見  これが三つとも揃っている点である。なかなかないことだ。けどよく考えると普通に流通している人気本も、えてして似たようなところがある。いわゆる権威主義。「売れっ子の俺様が書くから売れるはず」「〇〇先生が書いているから売れるはず」「〇〇先生が書いているから面白いはず」  意外にたいしたこともないのに売れ続けている先生やシリーズというのは、あるものだ。

鼻行類 (平凡社ライブラリー)

鼻行類 (平凡社ライブラリー)

 

『あなたも落語家になれる―現代落語論其2』立川談志さん

さんざん落語書物を漁っておきながらいまだにこれを読んでいなかったのが我ながら信じられない。しかし、本書の約20年前にさかのぼる『現代落語論』と比べると、ずいぶん景色は違っている。寄席を離れて落語立川流をたちあげた談志師匠の、芸や落語の未来についての苦悩や葛藤が幾重にも語られている。その内容の繊細なこと。大胆な語りの中に実にことこまかな思慮が潜んでいる。

あなたも落語家になれる―現代落語論其2

あなたも落語家になれる―現代落語論其2

 

『隣り合わせの灰と青春』べニー松山さん

小説は滅多に読まないのだが、あることから本書の存在を知り、購入。微妙にプレミアがついていてちょっと高かった。
そもそもこれを読もうと思ったのにはわけがある。昨今の投稿サイト、中でも一部の異世界作品のテンプレは、なんでああもゲームライクなのか。レベルだのステータスだの職業だの何だの、テレビゲームのような設定が当たり前のように並んでいる。ちゃんと物語の世界観にそくしているならまだしも、のっけからこの調子で始まって……。こういうものが、ごく一部の人たちの間で愛好されるならまだしも、巷を席巻していると知った時は「これでいいのか、日本の文芸」と思ったものだ(余計なお世話だろうけど)。
こういった作風のはじまりを探った時、この本に会った。作中にゲーム的な設定をがっつり前面に押し出したファンタジー作品は、本書が嚆矢ではないかと思う。もっとも、このおはなしはRPG『ウィザードリィ』の世界観をリアルに描き出すために「レベル」だの「ジョブ」だのを出してるのであって、昨今の手合いとは全然意味が違う。といって、本書が文学作品として優れているとは言わない。

隣り合わせの灰と青春―小説ウィザードリィ

隣り合わせの灰と青春―小説ウィザードリィ

 

他にも読んだけど他愛もない。
以上です。

アヲイ、抜歯する。

月八日に親知らずをぬくということで、とりあえず予定されていた酒の席はすべて一昨日以前に片付けて、心の中では白の裃を着けていた小林でありました。

歯を抜くのは十数年ぶりで、そりゃもう嫌な思い出しかない。ゴリゴリ、キュッという感覚は長らく記憶にあった。ああ、書くだけでゾワゾワする。

しかも今回、先生のいうには、親知らずの手前の歯のかぶせ物の下に虫歯があるようなので、一回の治療で

  1. 親知らずを抜く
  2. 隣の歯のかぶせ物を取る
  3. 虫歯を治療する

と、サザエさんのように三本立ての予定でありました。

もうこうなったら俎の鯉だと、いつもより念入りに親知らずに歯ブラシをあて、歯科に行ったわけです。

 

膚麻酔よりあと、注射器でもっていつもよりバンバン麻酔を打たれました。親知らず周辺を、あっちにチュ、こっちにチュ、と。10数箇所。あんまり奥だからか意識がもうろうとしましたが、これはいつものことで、じきになれました。

椅子の背が倒れて顔に口だけ穴の開いた布をかぶされて、時を待ちます。かみてに先生、しもてに助手さんたちがぞろぞろと集まって、まるでかたきうちです。

先生、おもむろに口に手を入れる  スケーラーだの鉗子だのと指示がとぶ。手が動く。しかしわたしの口の中は麻酔が効いて、上をなぞられる程度しか感覚がありません。

やがて奥の方でギリギリと挟むような、ねじ込むような感覚があり

 

ゴリゴリ、キュッ。

 

嗚呼、抜けたんだと感じました。それじたいは呆気なかった。「抜きますね」とか「抜けました」とか言ってくれてもいいのに。飛行機だって当機は離陸しますとか、向こうの温度が何度だとかいうじゃないですか。もっとも前者は患者が構えちゃうから、せめて後者くらいはね。

 

あ歯が抜けたということは、隣の歯にかかるのかな、と。1話目がおわって2話目です。一切のインターバルも無く、わたしはポカンと口を開いたまま、2話目を待ちました。

すると  どうしたことでしょう。

先生の手のスケーラーは、親知らずが去り晴れて右の大奥歯に昇格した歯の側面を、ゴオリゴオリと手動で削り始めたではないですか。

「ははあん」私は思ったね。

つまり、隣のビルがなくなったいま、ずっと日陰になっていた外壁の汚れを落とそうじゃないか、と。歯石をとってらっしゃるんですな。おげれつなはなし、ガリガリゴリゴリ、面白いようにとれていくのがわかる。削られてる側としても、「いいぞ、やれやれ」てなもんです。

しかしいつまでたってもやっている。
先生、隣の歯のかぶせ物は、とらんのですかい?

 

たしのそんな思いなど届くわけも無く、そもそも口に指をつっこまれているから物を尋ねることもできず、わたしは1話目と2話目の間のCMが長すぎることが気になりだしました。

やがてそのゴリゴリは親知らずに面していた側だけでなく、全面におよび、さらにその手前の歯に至りました。

なんだか急に場が静かになって、わたしは不安になりました。しかも、あの、バキュームというんですか? ごいごいよだれを吸い出す奴を、やけに助手が口に突っ込む。あれ? あれ? なんかねっとりしている。

そのうち先生は、親不知を抜いた肉のかたまりらしきところ(麻酔でいまいちわからない)を、何かの先でつんつんやりだした。おかしい。さっきは抜いたらすぐに隣の歯石をとりはじめたじゃない。だのにまたそこに戻るわけ? いまさら? たびかさなるバキューム。しずけさ。

 

もしやなにかしくじったか?

 

私がそう思った、その時です。

奥の歯茎にチクっと痛みが走りました。
結構な感覚です。バンバン麻酔打ってんだから、これ素でやられたら飛び上がってるよ。その後、ツーッと尖った感覚。右から左へ。それからまたチクっとし、ツーッと左から右。かえってく。

  あ、縫ってやがる。

ふと唇にテグスの感覚。その間にも歯肉をよぎる糸の往来。もう、わたしは、ボロのデニム地に充てられる古切れのようにヨレた気持ちになって、泣きそうでしたよ。

親知らずの出血が止まらないから? それともスケーラーで傷つけた? 慌ててるから静かなの? 何とか言ってよ、先生('A`)

 

がて治療が終わり、説明がありました。

師、曰く

「親知らずを抜いて、歯茎と隣の歯を見たところ、今日のうちに深いところの歯石を取った方がよいと判断し、二か所切開してお掃除*1し、縫合しました」

おどろいた。二か所とは。全く気付かなかった。見事な手並み。

たぶん、歯を抜いて歯茎がたゆっとなっている時が都合がいいのでしょう。よーく思い出すと、たしかに、数回前の治療の際、そういう治療の可能性を言われていた様な気がする。

「じゃあ 隣の虫歯は」
「時間が無かったので今回は」
「次回?」
「次は抜糸ですね」

そう答える先生のあっさりしたこと…。プロですね。その場の判断でパパッと手術する。そしてそれをやりきる。感嘆しました。そりゃミスなんてしませんよ。なんだか疑ってすみませんでした。先生、ありがとうございました。

 

(とはいえ、親知らずを抜くのは、たしかに治療ではありますが、まあ彼らの世界では一つの商機であるということも、言えるのかなあと思った次第です。だって、もうやられちゃったら、何も言えませんもんね。最初に見積り取るようなもんでもないし)

 

以上です。最後まで読んでくださりありがとうございました。

本は、本はいりませんか。本を買ってください。

贋物

贋物

*1:歯科の方はプラーク除去をほぼ「お掃除」と言い「歯石取り」とか「歯糞取り」とはいわない。私はこれを聞くたびに便所の隠語が「お花摘み」であることをほほえましく思い出す。

アーティストの集い

さらですけど。
先だって7月の末に、地元でアーティストの集いがあり、参加させていただきました。そういうのに参加するのは初めてで、計画が決まった頃からほんとうに楽しみでした。よく考えたら、ぼくが人生で何らかの集まりに行きたいと思って自らエントリーしたのは、指折り数えられるくらい少なく、ぼくのリアルの不精加減を知っている人が見たら「んな、ないごっか(薩摩語)」と憤るのは必至です。

 

やしかし、どうしてこういう集まりに参加するのを求めるようになったのだろう。
よく考えたら、今年はいろんな初対面の人に会ったり、電子で対談本を出してみたり、11月には文学フリマに出ようとしていたりする。ぼくがぼくに「おまえどうしたの」と尋ねたくなるくらい、変わっている。

……おそらくだが、ちょと想像はついています。

いちばん簡潔に説明できる状況は、拙著「グリーンボーイ云々」の三つ目の対談にあるところなのですが(全然読まれていないので放っておきますけど)、つまり人間関係や他者に向けられる洞察というものも、人生における殿堂の建立の一端だと思うからです。

グリーンボーイ・アッパータイム

グリーンボーイ・アッパータイム

殿堂。単純に図式化して言うと、天守閣になにかしら自分の根源的な物、たとえば信条とか生命みたいなのがあるとして、その下方の左右に二本の足のような柱があるとする。
片方の柱は、創作や思索をもってかたちづくる自分自身の営為であり、もう片方は外界すなわち他者から刺激とともに与えられる創造的興奮……みたいなもの。
その二つがバランスよくあれば、天守閣は落っこちずに済む、と。

とまあ、そういうものがあるとして、いま、ぼくはなんだかとてもバランスが悪いのだと思う。

サラリーマンを辞めて五年くらい経ち、そっから自分の創造的分野だけでやってきましたから、そろそろそっち側の柱が疲弊しちゃって、反対側の柱を強化したくなったのでしょう。それで新奇な出会いや出来事を求めているのでしょう。

いやしかし、ぼくは極めて単純なことをどうしてこうややこしく言おうとしているのかね。

 

れにしても、アーティストの人たちと会うのは、これはもう空気からして違いました。やはりその、30人なら30人が集まった時の醸すものが異質です。決して活気があるとかでは無い。表現者だからといってみなとてつもなくコミュニケーション力が高いわけでは無く、むしろ自分独自の世界を持っているから、一種頑なにすら感じられる部分もあり、その一方で何も言わなくても存在自体がパフォーマンスのような方もござっしゃった。

同じ30人があつまるにしても、異業種交流会とか街コンみたいな、いわゆる非表現者系の人たちの集まりとは、やはり違うという感じです。初対面だらけの集まりでしたが、打ち解けるのがとても早かった気がします。まあよく分からないけど。

日頃、内にも外にも表現に四苦八苦している者同士の自然な共鳴があるんですかね? 

ぼくなりに勝手な想像をしてみると、例えばめいめい名刺交換をする際、「わたしは絵描きです」「私は歌手です」「ぼくは文章です」と、「我こそは~」とおのれを称する。その瞬間に……ぼくはいまだに自分が何者だとレッテルするのを何であれ照れるのだが……それと同様の空気を全然出さない人は、やはりほぼいないなあ、と。そういうところに無意識のシンパシーが、初っ端から働いた可能性はあるのじゃなかろうかと、思うのです。

またその感覚たるや、実に甘美なものですよ。いらっしゃっていた人々は、プロ、セミプロ、アマと、だいたい三つに分かれると思う。誰しも最初はアマだったことでしょう。その人々がはじめて「I am 〇〇」と自分の表現分野を冠に姓名を名乗った時の心持ち  それを自分に許した時のほこり、まわりに許された時のよろこび  というものは、あるわけです。無い人もいますが、あるにこしたことはありません。

つまりその甘美な無意識のシンパシーが、表現者同士の嗅覚を刺激して、知らぬ間に相手の表現の足跡に思いを至らしめるという……嗚呼、まるで壮大なSFですね。

ちなみにこの感覚の無い人は、たとえプロであってもアーティストという種族では無いことがある……ような気がする。そういうひとは、しゃべると、分かりますね。匂いが違うというか。たぶん以前広告業にいた時、そういう方々に広くお仕事をお願いする立場だったから、「ああ、この人は仕事早いな皮相だけど」「この人は面倒だけどいい仕事するな」とか、嗅覚がついたかも。

まあこんな話は、ある枠組みの人から見たら次元の低い話でしょうが、そういう部分に悶々とするような人こそ、ぼくは長々と接していきたいなと。芸を好むというより芸人を好むのです。

 

の話をしてたのか分からなくなったので、これで止めますけど、とにかく、いまのぼくには、外部の刺激が要るのだな、と。それもきわめて無秩序で、ちょっと先が分からず、しかも永遠にその好奇心がつきないような……。

アーティスト、という人たちと会うのが楽しかったのは、まさにそういう条件を満たしてくれるからかな?と思います。

つまりまた参加したいということです。

 

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