アヲイ報◆愚痴とか落語とか小説とか。

創作に許しを求める私の瓦斯抜きブログ

読書中の本で気になったところ。

落語家・五代古今亭志ん生の随想や対談をあつめた本の、次の箇所です。

十八番の“火炎太鼓”


  しかし、やはり師匠が寄席にお出になりますと、大向こうから“火炎太鼓”という声がかかるでしょう。

 

志ん生 それはそうです。やってくれといっても、やったことはない。その人はそれがいいかもしれないけれども、ほかの人はどれがいいかわからないですからね。その人のいうことだけきくわけにはいかないですよ。だから、とにかくまかしてくれと、自分でやるようになっちゃうですね。中にはそういわれるとやる人があるけれども、私はそれがきらいなんです。
 まあ、座敷に呼んでくれて、これが聞きたいといわれれば、やりますよ。ですけれども、そうでないときは、大ぜいの人が聞いているのでしょう。それを押さえちゃうだけのその人に権利はないのだ。皆同じ料金を出してきているのだから……(笑)だから、私はやらないのです。

 

  それで師匠、たとえば席亭と、ラジオ、テレビ、お座敷と、どこが一番はなしいいですか。

 

志ん生 まあ、やはり、何か特殊の研究会だとか、三越の落語会だとか、東宝とかいうところはやりいいですね。あとはみな大衆で、いろいろな人が来ていますからね。だから、少い客に何するよりか、大ぜいに向くようなことをしゃべっちゃうよりしようがないのですよ。だから、芸術というものはやれはしませんし営業ですわね(笑)


古今亭志ん生志ん生芸談』(河出書房、2006)

眼目は最後のところで、芸事のうち芸術性と大衆性の両面を持ち合わせているものは、えてしてこういうことがあると思う。

さらに志ん生はこうも云っている。

芸人は芸と人気の両方が一緒になってあがってこなくちゃ……芸ばかしでもいけないし、人気ばかしでもいけません(同書)

これは難しい。
人間どっちかによっかかりたくなるもの。しかしそんな気分が微塵にでも心に去来している時は、すでに精進にムラが起きているような気がする。小説の場合で言うと、「これウケるかな?」「賞の毛色と合ってるかな?」と人気のすじばかり追っかけたり、かと思うと「いや、私はこれを書きたいのだッ! 分からん奴は置いてく!」と意地を張ってみたり。このふたつは両極端のようでいて、じつは根っこの部分でつながって、シーソーみたいに揺れている。

芸に逃げたり、人気に走ったりせず、ただひたすらそれをやってるのが好き  そんな精進をしたいものです。

志ん生芸談 (河出文庫)

志ん生芸談 (河出文庫)

最近読んだ本。

ログを書こうと思い立ったが、書くことが無い。無理して書くことも無いのだが、ちょっと書かないとずっと書かなくなる。それはなんかいやだ。このブログは大したことは無いけれど、自分が始めたブログの中でもっともちゃんと続いている。これまでいろいろ立ち上げてきたが、全部放置プレイ。たまに見つけてアクセスしようとしても、アカウント用のメアドもパスワードも分からないからどうしようもない。ここはそんな風にしたくないので、何か書こう。

最近は、小説の推敲をやったりやらなかったりしている。本当は、もっと時間を置いて触りなおしたいのでやりたくないんだけど、気になってついやってしまう。
これはいかん。
そこで本を読むことにした。小説の推敲をしようとしたらおもむろに取り出して読み耽る。そうやって推敲を阻止する心算である。早速本を調達した。三冊。ブックオフである。いつもはamazonで買うのだが、たまには本屋をぶらぶらしながら本を見つくろうのもオツなもんじゃないかと思った。
買った。で、読んだ。その感想を簡単に述べよう。

 

一冊目『教養としてのプロレス』プチ鹿島さん

私はプロレスファンである。だがプロレス界隈の本は、レスラーの自伝以外は読まないようにしている。どうもプロレス評論には中道が無い。愛好家の視点は偏狂的だし逆はすこぶる毛嫌いしている(そもそも逆の立場はプロレス本自体を書かないが)。成功している例は『1976年のアントニオ猪木』くらいではなかろうか。私はあの本で戦後アジア史の輪郭を理解した。

さてこの本はどうだろう。簡単に言えば前者である。プロレスへの偏愛を通じて折々の社会事情と照合したり、照合したり、照合したりする。なんとまあ罪の無い本だろう。プロレスファンが二人集まればこんな話をするだろうなあという風合いである。一つの風景であるような書物である。私もプロレスの小説を書いているけど、あのあとがきもこういった風だった。プロレスファンの神経は社会の矛盾に対して意外に図太い。そこのところは共感できた。

教養としてのプロレス (双葉文庫)

教養としてのプロレス (双葉文庫)

 

二冊目『日本数寄』松岡正剛さん

何だかよく分からないけど買った。しかしなんと知的な本か。二ページくらい読んで「すごいのに出くわした」感があった。日本のありとあらゆる美の粋を解剖している。唐草模様やら仏像やら茶の湯やら。そこを筆者が卓抜した知識量と感性で分類していく。

全体に聞いたことがない横文字が多い。辞書代わりにスマホが手放せない。この人は日頃からこんな難しい単語を振り回して考え事をしたり人と話をしたりするのだろうか。正直私は書いてあることの一割も分からなかった。しかしその一割の中に、日本数寄の鮮やかさ、佇まいを知ることができた  ような気がする。読者を日本の数寄にいざないつつ、「ああこれ私には難しいや」と距離を置かせる。そんな本。

日本数寄

日本数寄

 

三冊目『エクソシストとの対話』島村菜津さん

この本をラストに読んだのは、単純に一番楽しみだったからだ。一冊目は前座、二冊目は中入り前。いよいよ真打である。
結論、大満足。
オカルト的関心から立ち入ったのだが、本書はそこを満たしてくれつつ、エクソシストのリアルな生活を描いている。筆者は非常に密に、真剣に、取材を試みている。神父やその他の先生方がきちんと応えてくれているのは、ひとえに筆者の誠実な態度が通じたのではないか。エクソシズムの歴史、現代医学との関連、立役者、癒しの方法論……などなど、読みどころ満載である。まじで面白かった。

もっとも、私は本書を宗教学的・心理学的見地に立って読んではいない。だって専門家じゃないもん。したがって本書の内容をどうとらえるべきか、その基準を持たない。だから、ただ面白かった、と、それだけを言いたい。

エクソシストとの対話 (講談社文庫)

エクソシストとの対話 (講談社文庫)

以上です。
梅雨ですね。晴耕雨読といいます。また面白い本を探して読んでみよう。次作『UB物語(仮)』は9月頃の予定です。

学園コメディ無責任姉妹: 超特盛マックスエディション

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文学フリマについて

る5月6日に文学フリマ東京が行われた  ということである。私は遠隔地住まいだから、伝え聞くところでしか分からない。
ツイッターを見ていると、ひやかしに行った人、出店した人、さまざまな呟きと現場写真があふれ、活況を伝えていた。もっとも、文学フリマの盛況は昨日今日始まったことじゃない。去年も、前の年も、そのまた前の年もあったし、東京だけでなく、大阪だの名古屋だの、いろんなところで開催され、賑わっている。
で、これらのツイートを見るにつけ、毎回思う。

  いいなァ。

普段から人混みが嫌いで、「立ってるよりは座ってたい、座ってるよりは寝てたい」という不精っぷりの私だが、こと「文学フリマ」に関しては、常々羨望だったのである。しかもおこがましくも、本を物色しにぶらぶらしたいんではなく、売り手になって出てみたい、と。

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