アヲイ報◆愚痴とか落語とか小説とか。

創作に許しを求める私の瓦斯抜きブログ

アヲイ、南日本文学賞の公開選考会を観覧するの巻

ちょっと長いです。お暇な時に読んでくださいね。

月二日、わが地元鹿児島・南日本新聞社内の「みなみホール」にて、2018年南日本文学賞の公開選考会が行われるというので、行ってみた。

南日本文学賞というのは、鹿児島の地方紙「南日本新聞」が1973年から開催しているわりかし歴史のある文学賞である。応募条件は「鹿児島宮崎在住か、県外の人は鹿児島をテーマにした内容にすること」。応募数こそあまり多くないが、選考を公開でやったり、大賞になったら作品全文が県下30万部の新聞紙面に刷られたりと、なかなか豪気な賞である。小さい頃から「あー、やってるな」と横目で見て知っていた。

雨の中、家から新聞社のビルまで、歩くこと40分。前夜の酒が微妙に残っている。はだざむい昼下がり。なんでものぐさな私が、わざわざそんな思いをしてまで出向こうとしているのか。

それは、かくいう私が最終候補に選ばれていたからである。

ほんとだってば、証拠を見せよう。

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南日本新聞社WEBサイトより。年がバレたか。

ほらね。

本来、こういう記事は、審査員とか他の候補のプライバシイを考えて、掲載を配慮すべきなのでしょうけど、なにしろ南日本文学賞は紙面に大ぴらに載せた上、選考会を公開形式にするくらいなのだから、私もその趣旨に則り、全部公開で書いてしまおう。
あと、この賞の候補になるにあたり、「過去はどんなん?」と検索かけても、大した記事がヒットしなかった。どうりで応募が少ない  つまり周知されない。私がこうして書き綴ることで、今後の拡大につながればいいと思う

 公開選考会の話をする前に、それに至るまでどんなことがあったか、時系列に沿って書いてみよう。おりおり抱いた想いとかを添えて。

 

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無責任落語録(39)「黄金餅」

題にするのが随分遅いが、先日「このセルフパブリッシングがすごい!2019」が出版された。編集長はこれを独りでまとめ上げられたのである。途方もないお仕事である。感服敬服。「この編集長がすごい!」があったら、間違いなくチャンピオンです。私は推します。

このセルフパブリッシングがすごい! 2019年版

このセルフパブリッシングがすごい! 2019年版

読んで驚きました。私のがちらほらw
前年前々年はご縁がなかった。「あーKDPで出してる方々の中じゃ、私ンのはあんまりアレじゃないんだな」と思っていた。そんな中で突然出てきたから、ビックリした。
個人的なヨコロビは……

  • ランキングに3つも入っていたこと
  • 夥しい数を読んでおられる三世さんにピックアップしていただけたこと
  • 柚葉さんはいつも私以上に私のことをうまく書いてくれること

ほかにも「まあ、あのお方ったら」「やれ、ありがたや」と、ニヤニヤした次第である。

「このセルパブ」は、ランキング以外にも、インタビューや投票者の寸評、コラム等、読みどころがいっぱいである。全編読み通して驚いたのは、寄稿者がみんなちゃんと小説知識や読書歴を持ち、文芸観というか、執筆論というか、一家言もって、それを見事に書き下ろしておられることだ。まあ小説を書くくらいだから、文章は誰しも得意としても、それ以前に、知識とか考え方というのは、日頃から情報を仕入れ、関心を煮詰めていないと出てこないことであるから、並大抵じゃないなあと。
私は自分の小説を書くので精一杯である。いざ書評せよと言われても、何をどうしていいのか、どこから手を付けていいのか、呆然とする。だから「このセルパブ」の中の推しパブ等々の文章を読むと、いちいち「すごいなあ」とためいきが出ました。

 

芸に寄らず、何事も評論を上手にする人は、すごいなあと思う。評価対象に対し、凡人には輪郭がぼやけてよく分からないような全体像を、キューッと絞り上げ、見極め、刻んで、角度を違えて、最後にピシャッとしたことを言う。そういうのを読んだり聞いたりすると、上手なお芝居を観たような気がして、おもわず「なんとか屋ッ!」と声を入れたくなる。

だいぶ以前、評論家の視点について、こんなことを体験をしたことがある。

五代目古今亭志ん生の得意ネタの中に「黄金餅」というのがある。録音を聴くと、志ん生のフワフワした口調と噺のリズミカルな展開に、客席は終始笑いの海。聞き終わってみると「いやあ、黄金餅というのは、爆笑ネタの真骨頂なのだなあ」と、思い出し笑いが止まらない。

しかし。ある故人の落語評論家がこんな風に書いていた。

黄金餅という陰惨で禁忌破りだらけのネタを、これだけ面白おかしく仕上げられるのは、志ん生の芸ゆえである。

あ。」と思った。
噺を聞いている時は、いちいちおかしく、録音の客席の雰囲気に流されて「面白い噺だ」としか思っていなかった。だが内容をちゃんと噛み砕いて再聴すると、落語の中でも指折りのひどい噺だと気付かされた。評論家はそこをずばり指摘した。このように、しっかりとした見識を持っている人は、志ん生の口調やガヤに惑わされず、噺の心髄にまっすぐ目を向けることができるのである。すごくね?

 

金餅は三遊亭圓朝の作と言われている。青空文庫にあるから読んでください(「黄金餅」)。圓朝後、誰が得意としてきたかは分からないが、円右あたりは演ったんじゃなかろうか。昭和に入ってからは五代目古今亭志ん生の独壇場だろう。笑いどころが全体にまぶされている。意外にも志ん生特有の言い回しによるクスグリは少なく、出来事が淡々と綴られていく。ということは、柳家三語楼譲りではないのかもしれない。

志ん生黄金餅を、評論家の弁に従って改めて聴いてみると、いろんなものが見えてくる。
まず第一に、登場人物にロクな奴がひとりもいない。

  • 西念/偽坊主・ケチ
  • 金兵衛/遺産狙い・死体損壊
  • 長屋衆/死んだ仏より生きてる仏
  • 木蓮寺和尚/破戒僧・インチキ経文

みんな自分に正直だ。

サゲもひどい。
金兵衛が焼場で西念の死体の腹をほじくり、そこから出てきた小金を持ち帰る。志ん生はこう言ってサゲる。

この金で目黒に所帯を持ち、餅屋を開いて繁盛したという。江戸名物黄金餅の由来の一席でございます。

最悪なままハッピーエンドとなる。
この由来を聞かされて黄金餅を買いたくなる人などいるもんかね? ちなみに、古い文献を漁っても、黄金餅なる名物があったという記載は出てこない。

自己中心。宗教を軽んじ、死体を散々に扱う。なにかこう、業の積もり積もった話だ。私はこれを長いこと、志ん生マジックで滑稽噺として聞いていたが、なるほど評論家の言う通り、耳を澄ますとドス黒いネタである。滑稽噺には違いないが、タダの滑稽噺じゃあ、ない。圓朝さんも、どうしてこんな噺を書いたのかね?

 

ん生の黄金餅には、圓朝の原本にない見せ場が二つ組みこまれている。下谷から麻布までの道行きと、和尚のインチキ経文である。この二つは他の落語には見られない演出方法である。場面転換の多い中に、明確な区切りを印象付けるあたり、全体のバランスを整える役割があるように思われる。決して噺を明るくしたり、陰惨さを消したり、本筋を侵すものではない。工夫の結果が、この演出法になったのだと思う。

志ん生以降は、三代目志ん朝、五代目談志らが掛けているが、到底及ばない。志ん生黄金餅は、師の声の高さ、揺れ、間合い、パーソナリティーみたいなものが一体となっていると思う。もはや「志ん生が演らないと『黄金餅』とは呼ばない」の域に達している感がある。
圓生文楽が演ったらどうなるだろうと想像する。圓生は目で演じるだろう。だとすると、エゲツない画になるだろうなあ。文楽は甲高い声が障りそう。聴く側も演る側もヘトヘトに。案外八代正蔵はいいかもしれない。ただし、猟奇的な噺として、である。

落語にしてもなんにしても、熱病的に崇めて臨むと、過剰に期待し、自分勝手に誤解して、本質を見失いやすい。そういうのを、見識ある人の意見で正し、正確に受け取ろうとする姿勢は大事だなあと。でも、一体誰が見識のある人なのか、それはよく分かりません。だから、仮に有名な誰かの意見であっても、あくまで参考とし、やはり自分の目を利かせていくことが肝心だと思う。

さて、個人的なことを申し上げますと、新作を急ピッチで進めています。いま40%くらいでしょうか。自分で書いてて面白いです。ということは、ジンクス的に、ウケません。早けりゃ三月頃に出るでしょう。ちなみにこの頃は、あと二つくらい、旧作の掘り返しをリリースするつもりです。

さいごに…「このセルパブ」で何が驚いたって「グリーンボーイアッパータイム」がランク入りしていたことです。これ、全然売れてません。何が悪いんだろう。表紙がパクリだから? 基調色が緑だから? 何かで読みましたけど、最近の傾向として「タイトルでおよそ中身が知れる」のが良いとかなんとか。でもまあ、いいか(面倒)

グリーンボーイ・アッパータイム

グリーンボーイ・アッパータイム

続・今ファミレスでぼんやりしているんだけど…

は今、ファミレスの隅っこの席に座っている。長年通い詰めているから分かっている。この席は系列店共通で、エアコンの送風が直接当たらない。ドリンクバーで長丁場の私には最適の場所である。

その席の特徴と言えば、壁沿いながら窓が無い。壁の向こうは路面電車の走るさむざむしい通りである。しかし、窓なんているだろうか? 妙に冷えたり、西日が差したりする。むしろいらないのだ。

グリーンボーイ・アッパータイム

グリーンボーイ・アッパータイム

しかし今日は違う。違うというか……なんかこう、窓がないゆえに悶々とせざるをえない状態に陥っているのである。

隅の席から広く店内に目を遣ると、私の前にボックス席が五、六席並んでいる。全て窓際で明るい。今、そこにいる客共はみな、一様に窓の外を見ている。しかも一点凝視。アヒルの群れが歩きながら一斉に一つ方向を見るように、みなぐーっと外を見ている。そしてこんなことを言っている。

「あらら」
「早く救急車を呼べばいいのに」
「あれはどっちが悪いの? バイク? 車?」
「女の人が立ってるね」
「あの人は関係ないでしょ?」
「パトカーも来ないねえ」
「人が集まってるねえ」

どうやら小さな交通事故が起きているらしい。ドンとかバンとかそんな音は聞えなかったから、大した事故ではないのだろう。客共は口々に「なにがああだ」「あれがなにだ」と言っている。

が、窓の無い私のところからは見えない。
ううう……なにがどうなっているんだろう。気になって仕方が無いじゃないか。
かといって、「どれどれ?なになに?」と自席を出て他所のボックスに割り込み、野次馬を決め込むのは、正直言って様子のいいもんじゃない。だから耳を扇のようにそばだてているのである。

れにしても、みな目のきらきらしていること  ! 彼らはぬっくぬくなファミレスの中で、借景の向こうに事故処理のライブを観覧しているのである。そして口々に、映画の感想を述べあうように言う。「救急車を」「警察を」と。でもそれは画面の向こうの話であり、誰一人、自らそうしようとはしない。それどころか、みな実に楽しそうなのだ。

「道が渋滞するよ。歩道に引っ張ればいいのに」
(頭を打ってたらどうするんだ?)
「工事の人が集まってきたね。よかった」
(何がよいのか?)
「誰か救急車呼べよ」
(あるよねそういうの。「誰かが呼ぶだろう」って)

頭の中で会話に交じる私。画面を見ていない私は、彼らほど閲覧者然としていないから、耳に届く内容をじれったく思う。けれどもなにもできない。私も手をこまねいている。あっ、これじゃ彼らと一緒じゃないか。

あ、見知らぬ君よ。助かってくれ。
いまだ救急車のサイレンが聞えないところを見ると、あなたは失神しているのだろうか。それとも誰かに助けられ、なにがしかの手当を受けているのだろうか。気になるけれど、私の場所からは、想像の窓しかなく、それは非常にあいまいで……。

年頭から新作に取り掛かっています。案外早いペースですよ。一週間でだいぶ進みました。……なんだろ、進行中の案件って、言っちゃうと頓挫することが多いので、これ以上はやめときます。あ、残飯カンパニーの続きではありません。

下のやつ、表紙変えました…このブログじゃ未反映のようですね。アクセスしてみてあげてください。苦労したんだから。そんでもって、読んで頂戴。本作は近々POD化するかもしれません。

学園コメディ無責任姉妹: 超特盛マックスエディション

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